僕が、生まれて初めて観に行った映画は、たぶん、叔母に連れられていった「男はつらいよ」だったと思います。
このシリーズは、本編が始まる前にいつも寅さんが見た夢だったというお決まりのオチとなる、ショートストーリーが作られていて、それ以前の有名なお話「鞍馬天狗」だとか、「ビリー・ザ・キッド」だとか、「白鯨」と「ジョーズ」だとか、当時流行っていた「UFO」をネタにしたものだとかが題材に使われていて、その時子供だった僕たちにも、非常にわかりやすく面白く作られていました。
ただ、残念ながら、僕が初めてみた映画「男はつらいよ」がどの回だったかを、まったく覚えていません。
柔らかな赤い光の中で、神社にお参りに行くシーンが冒頭にあったように思えたのだが、あれからほぼ前作を観たけれど、いまだに「これだ」と思った場面に出会えずじまいでありました。
まぁ、その時は、ただただとてつもなく大きなスクリーンに圧倒されて、ショートストーリーが終わった瞬間、あの名曲とともにこれまた大きな文字で「男はつらいよ」とスクリーンに映し出されたことだけは、異様にはっきりと記憶に残っています。
その時、僕は自分が男なのだということをしっかりと自覚していて、(そうか…男ってつらいんだ)とがっかりした記憶をしっかり覚えているのですから、子供だからって馬鹿にしてはいけないと思います。
あれはたぶん、僕が幼稚園くらいの年だったんじゃないでしょうか?
「男はつらいよ」は、そうやって僕が物心つく頃にはすでに松竹のドル箱映画で、劇中、寅さんがとらやに帰ってきても、絶対に一度では入らないことは、誰でも知っていたし、妹のさくらに遠くから電話をして「こっちでえらい世話になったけれども、俺は一銭も金がないから、こっち来てお前お礼言ってくれよ」なんていう無茶な要望でも、さくらはちゃんと叶えてくれることを知っていたり。
最近終わってしまった水戸黄門シリーズもそうでしたけれど、お決まりのパターンというのが心地よく、またそういうものをみんなが安心して観ていられた良い時代だったと思います。
そんな時代が過ぎ、しばらく経って、僕が高校生になってからも、寅さんは相変わらず映画館でやっていたし、正直食傷気味のところがあって、(まだやってんの)なんてあの頃は思っていましたけれど、それらが消えてなくなる時って、本当に突然で…、寅さんを演じていた渥美清さんや、美空ひばりさんや石原裕次郎さんなんかが、立て続けに亡くなったあとから、「昭和」という時代の偉大さというものを、自分が大人になればなるほど思い知らされているんです。
僕は映画の世界に、あこがれていましたから、今でも、占いの先生や宗教家の人たちよりも身近に、映画人である俳優さんや映画監督のほうに、親近感を覚えるんですね。
あの頃、「映画」というのは、まさに夢の世界だったと思います。
CGも、多彩なカメラワークもなかったけれど、面白いものを創りたいという人間の知恵が、そういった不便さを、却って逆手に取って、ちょっとすれば私たち子供が真似できるような、虚構の世界にますますハマっていけるような不思議な感覚がありました。
平成という時代になってから、TVや映画に普通の素人が「出たいから」「やりたいから」って出始めてから、何だか醒めてきてしまいましたけれど、それまではあのスクリーンの中にいる人は、本当に実在しているのだろうか?そんなことさえ思わせてしまうような、生き方そのものが、まるで夢の世界のような俳優さん、監督さんという方が、とても多かった気がします。
渥美さんが最晩年、ドキュメント番組のインタビューにコメントを残したことが、一時期とても有名になりましたが、僕はあの時の言葉がショックでショックでね、映画にあこがれていた人間だったから、また劇団に在籍するという一度は夢の舞台裏を覗いた人間だから、渥美さんの言葉が、とても重く、そして、ありがとうって思えたんですよね。
「寅さんが、手を振りすぎていたのかな。
愛想が良すぎたのかな。
スーパーマンが撮影の時に、見てた子供たちが、「飛べ!飛べ!早く飛べ!」って言ったってけれども…
スーパーマンはやっぱり…、二本の足で地面立ってちゃいけないんだよね。
うん。
だから、寅さんも黙ってちゃいけないんでしょ。
24時間手振ってなきゃ(笑)。
ね。ご苦労さんなこったね。
うん。
「飛べ飛べ」って言われても、スーパーマン飛べないもんねぇ。
針金で吊ってんだもんね」
渥美さんの言葉
この言葉を、70近くなった渥美さんが、優しくしかも毅然とひとり言のように、若者を諭すように、言うのね。
このフィルムの前に、「寅さん〜」ってバスから降りてくる渥美さんに向かって、ファンの方たちが声をかけるんだけれど、当の渥美さんは、それに振り返るでもなく応えるでもなく、すっと行ってしまうのね。
「なによ、あれ」
「まったく振り返ろうともしないからね」
ってファンの方が、がっかりするの。
そのあとに流された渥美さんのフィルムが、先ほどの言葉。
静かに川岸で座りながら、しばらくは何も言わずにじっとしていたんですって。
「普段はあんなこと言わない」って、
「だからあれはたぶん、渥美さんの遺言のようなつもりだったんじゃないかって」
あとでそのフィルムを見た山田洋次監督が言うんです。
実はその時、渥美さんの体はもうかなりボロボロになっていて、応えられる体力がなかったのね。
それでも、必死で寅さんを演じていた。
スクリーンの中で、みんなの夢である理想の寅さん像を必死に生きていたんです。、
人は、他より秀でた魅力的な人に自分の夢を託します。
そして、その人をまるで神様のように絶対視してしまうのね。
そして、それが叶わなくなった時に、お世話になった「夢」に対して、文句を言うの。
「夢」が終わったら、あとは興味がないの。
僕は違いますね。
作り手になることが夢だったから、いつも本当のことを知りたい。
そこに輝いている人の魅力や、価値観や、舞台裏の人間性をこそ知りたい。
そして、自分はその人その人そのものになってしまいたい、同じように葛藤し、喜びも苦しみも、同じように体験してみたい、と強烈に憧れます。
求めて得られないから、人を見限る。それって、今まで夢を見せてくれた人にとても失礼な行為だと私は思うんです。
2009年に亡くなられた南田洋子さんは、晩年、認知症を患い、車いすの生活を余儀なくされても、すでに夢終わったその姿をTVの画面に晒すことを辞めませんでした。
南田さんも、夫である長門裕之さんも、ボロボロな姿を晒していたけれど、僕は普段決して見ることの出来ない、夢演じる者たちの裏の現実を食い入るように見ていたんです。
そこには、現代恰好悪いと思われている、辛抱だとか、我慢だとかが、叫び声をあげながら必死で生きている姿と一緒になってキラキラ輝いていてね。
私はお二人の演技がとても好きだったから、彼らの表も裏も両方見ることが出来て、渥美さんのこともね、こういったお話を渥美さんが生きている時にお聞きすることが出来て、本当に良かったと思っているんです。「ありがとう」って、心から感謝しているんです。
寺千代
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