寺千代の世界


2.赤穂義士(四十七士)〜私の先祖のこと〜


 今日は、私のご先祖様のことを話しておこうと思う。

                      

 私のご先祖様は、忠臣蔵の「赤穂義士」としてよく知られている、四十七士の一人である。名前を、「寺坂吉右衛門信行」といいます。


 赤穂義士は、元禄時代、赤穂藩の中で忠義を尽くした武士達のこと。

                      

 元禄14年3月14日のこと。江戸城松の廊下において、赤穂藩藩主「浅野内匠頭長矩 (あさのたくみのかみながのり)」公が、高家筆頭「吉良上野介(きらこうづけのすけ)」へ突然切りかかるという事件が起きた。

 それを止めに入った者の 「殿中でござる」というセリフは、毎年12月になると放映される忠臣蔵の映画やお芝居の中に出てくる良く知られたセリフである。
 忠臣蔵とは、この実在の物語に感動した戯曲家が、歌舞伎の演目として登場させたのが、はじまり。以降、時代を経ても多くの人にこの物語が親しまれ、また様々なメディアに形を変えて何度も登場した、日本人の心を映し出すものである。

                       

 さて、将軍の住む江戸城内において、刀を抜くということは、「お上に対する冒涜」とされる。また、当日幕府は、朝廷との大切な儀式が執り行なわれることになっていたことが、この事件により大事となってしまい、当時の将軍徳川綱吉が激怒したそうである。

 浅野内匠頭は、即日切腹。藩に至っては、お家断絶という実に厳しい処置が綱吉公によってなされることとなる。

 藩がお取り潰しになったということは、藩に在籍していた数百人全員が、一斉に職を失ったということになる。これにより、「赤穂藩士」は「赤穂浪士」という名前で知られるようになる。

                       

 この後の赤穂事件のことについては、とても有名な事件なので割愛させていただくが、ここでは我が「寺坂吉右衛門」について、私が知っていることをここに記しておこうと思う。

                       

 私は、15年ほど前、かつてより父から聞いていた先祖のひとり「寺坂吉右衛門」について知ろうと、兵庫県赤穂市に単身調査に行ったことがある。

 まず、私が行ったことは、横須賀市役所に行き、出来る限り以前の戸籍謄本を出してもらうことであった。
 市役所に置かれている戸籍謄本の写しは、直系の者であれば、何代か遡って出してもらうことが出来る。そこで、我が家系は、五代前の先祖がここ横須賀に来たことが分かった。

 それ以前の表記は、兵庫県赤穂郡坂越村ということが書かれていた。
 これは、私の曽祖父より聞いていたものと合致する。

                        

 私は、赤穂に行き、そこで色々調べた結果、五代前の菩提寺と、さらに寺坂吉衛門の父の菩提寺が同じ宗派でつながっていることを知った。

 当時、まだ存命中でいらした花岳寺のおばあちゃんと知り合い、その方のご好意で、赤穂市の歴史研究家「三谷先生」をご紹介いただくことで、色々なことが分かって来たのだ。

                        

 先生のお話によると、私の五代前のご先祖様が生きていた頃は、寺坂の名前を持つ人々がひとつの集落をつくり、そこで生活をしていたこと。そして、その人たちは間違いなく赤穂浪士の寺坂吉衛門の末裔であることを教えてくれたのである。

 その後、父も赤穂を何度か訪れ、寺坂吉右衛門の父の菩提寺の住職にお話しを聞く機会も訪れた。


 その時、住職は寺に所蔵している寺坂吉右衛門直筆の手紙というものを、父に見せてくれたそうだ。残念ながら、私はその場に立ち会わなかったのだが、後日、その写真を私は見せもらうことが出来た。

 それは、四十七士の家族については、罪を問わないという幕府の決定を知らせる手紙だったが、住職曰く、「人柄が窺い知れる」ということであった。足軽という身分でありながら、ここに書かれた文字の達筆さ、そこに選ばれた言葉、かなり学があった人物ではないかと、おっしゃっていた。

                        

 かつて、「寺坂逃亡説」など、実に礼を欠いた説が浮かんで来たが、この発端はある大阪にある大学の一教授が唱えたことであり、それはまったくもって根拠に乏しい異説であった。
 
 私が赤穂を訪れた当時も、こともあろうか赤穂市内においてでさえ、この異論がまかり通っていたこともあり、三谷先生は私に、「あなたのご先祖は、決して逃亡などしていないよ。そんなことをするような人じゃないんだよ。それを私は、皆さんの前で講演しました。その時、赤穂の人から大拍手が巻き起こりました。どうぞ自信を持ってください」そう言ってくださった。この場をお借りして、あらためてお礼申し上げたいと思う。

                        

 近年は、研究も進み、吉右衛門像は大きく変わってきた。

 大石に見込まれ、重大な使命を託された寺坂が、泉岳寺の前で隊列を離れたことが分かったのだ。

 これは、密命であったため、当然のことながら、人々には知られていなかったものである。それは、こういうことであった。

                        

 討ち入り当時、38歳だった吉右衛門は、広島で謹慎していた浅野大学に、討ち入り成功の報告に行くよう言付けられたのだ。
 さらに、残された四十七士の遺族の面倒をみるよう、その役目を負わされたのである。

 彼の誠実な人柄を見込んだ大石からの懇願であった。長い間、我が先祖は、いわれのない汚名を着せられていたのある。

                         


 さて、寺坂吉衛門という人は、四十七士の中において、四十七士の中において四十七番目にランクインしている者である。
 身分は、四十七人中最も軽く、「足軽」という肩書きである。

 当時で言えば、その後の討ち入りにさえ本来ならば参加出来たかどうかさえ分からない。しかし、他に四十七人以外にも大勢いた浪士たちが、討ち入り前に逃亡してしまった者たちと比べて、大石内蔵助の巧みな智恵によって主君のために憤慨して血判状を押して集まった四十七士の中にいた彼は、身分が低いながらも主君を思うその誠の心を汲み取られて、共に参加させられたと想像出来る。

 討ち入り当時の寺坂吉衛門の役目は、表門組みと裏門組みを結ぶ連絡係りであった。(はずだか…何人か切っているようである)

 そして、討ち入り後は、たぶんその身分ゆえに先ほどの密命を受け、一人83歳の天寿を生き通すという異例の人生を送るのである。
 「後世にこのことを伝えよ」との命を受けて、大石より逃がされたということが、忠臣蔵の物語の中で語られている。

 そもそもこの「忠臣蔵」とは、当時の歌舞伎の演目の一つであった「仮名手本忠臣蔵」より来ているが、私の先祖の存在がなかったら、この詳細な物語もこうして伝えられることはなかったのではないかと思うと、やはり寺坂の存在というものは、大きかったと思う。

                        

 この後のことは、ブライダルコンサートの舞台上でも語ったことだが、私はこの私のご先祖様と、私自身の役割の共通点をここに見出した。
 
                        


 現代の二分化された価値観の中において、私は占いを通じて出会った、多くの人たちが苦しんでいることを知った。

  「勝ち組」「負け組み」。
 勝ったからどうだというのだ。負けたからどうだというのだ。
 
  そんなことで苦しんでいる風潮を、私は哀れに思う。この二分化された価値観は、かつての日本には存在しなかった価値観である。
 
 君主は、民を憐れみ、民は君主を尊び、敬していた。また、常に自分が目立とうなどというものは、「恥」とされた。人知れずして、忍び、思い、祈る姿こそ、この国に住む民たちの美徳ではなかったのだろうか?


 私は、私自身を、『優等生の劣等生、劣等性の優等生』と称す。

 もし仮に、私の先祖がさらに上級の身分の持ち主であったか、または世間に迷惑をかけたような人物であったとしたならば、大人になって物事を知った私は、この成人したばかりの頃の独特な自信も、どこか揺らいでいたに違いない。

                        
 しかし、私の原点のひとつである、寺坂吉右衛門という人の人生を見た限りでも、彼は誠実そのものであり、また身分に甘んじることなく、良く学び、また、実に謙虚で、勇気もあり、まったくもって正直者であった。

 残りの人生を寺男を勤めながら、義士たちの菩提を弔いつつ生涯を終えた83年間は、四十七士に名は連ねているものの、他の者と比べて実に地味な人生である。

                        

 しかし、そんな先祖がここのところ注目を浴びることが起きた。

 池宮彰一郎氏の小説『最後の忠臣蔵』である。

 この作品の主人公は、今まで不動の地位にあった大石内蔵助ではない。寺坂吉右衛門なのである。その内容は、フィクションであるが、劇中に描かれた吉右衛門像は、先ほどお話しした新たに判明した人生ほとんどそのままの姿で描かれている。死を選ぶことを許されず、苦悩の人生を生き抜いた人物である。

 小説は、まずドラマ化され、映画化され、明治座の舞台となった。
 共に、大ヒットとなっている。

 なぜ、私の先祖が?

                        

 私の結婚披露宴であった2011年1月15日、横須賀市文化会館大ホールで行った「ブライダルコンサート」の舞台上で私は、そのつい前月公開された映画「最後の忠臣蔵」についてこんなことをお話しした。


 「寺坂吉衛門と言う人は、本来ならば歴史に登場するような、身分を持ったり活躍をしたりした人ではありません。
 しかし、不思議なことに、その彼が今、全国から注目を浴びている。これは、どういうことでしょうか?
 彼はその誠実な人柄ゆえに、長年、物語の中でも、端のほうで小さく謙虚に存在していた人物です。私は、この人が自分のご先祖様であったことに、とても誇りを持っています。そして、このような人物が現代においてクローズアップされてきたということも、日本人の一人として、実に喜ばしいことと思っています。

                        

 私達の価値観は、いつから、勝ち負けにこだわるようになったのでしょうか?私の先祖は、四十七士の中で唯一生き残った人物ですが、それは現代の価値観とは違い、苦労と屈辱そのもの人生であったと思います。しかし、そこに生き続けたということが、彼の尊さであり、耐え忍んだ彼の強さであり、私が何よりもご先祖様を誇る理由であります」


 私の中に流れる血が、私を作り、紫微垣を作らせたのである。



さらに…。いま、こちらも注目です。
舞台は、終了しました。
 
 明治座 140周年記念

「女達の忠臣蔵」





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