私塾 紫微垣
紫微垣の実際の授業風景〜その弐〜
素読(そどく)
「大人のための自分自身への読み聞かせ」

〜 心に良い言霊を 〜


意味を理解しようとせず、何度も繰り返して覚える


 素読と書いて、“そどく”と読みます。


 素読とは、かつての寺子屋や藩校、そして私塾において、為されていた学習方法で、まだ小さな子供達が、論語や四書五経などを先生について発声し、それを何度もくり返すことで、言葉が身体に染み込んでいくという効果があります。
                              


 多くの人を日本人がこれほどに、優秀な民族となっていった理由として、本来外国の言葉であるはずの漢文を、まるで自国語のように触れ、いくつもの表現方法(平仮名・カタカナ・漢字等)で、言葉を理解し扱うことが、あげられます。



〜 物事の有無に囚われず、自ら是非を判断する知恵と感性を磨く 〜

読書のすすめ

 私が、15年間のあいだに多くの人を占って知ったことは、本来ならば人に委ねずとも、自分自身の力で決断し行動するべき人生の課題において、本当にどうしていいかわからない人が増えているということでした。

 これは、日常の悩み以前の問題であり、いわば日本という国の未来に危機を覚えるものであると、私は感じました。


 これは明らかに、多数のメディアによる弊害であり、読書数の減少がもたらした結果であると思います。

 本を読まない、新聞を読まない。歴史や世界のことについても、学校で習った、しかも偏差値をあげるためだけの、語呂合わせで記憶した年代や名前だけでは、命をかけて私達に生き方を教えてくれた偉人達に申し訳が立ちません。



天才の作られ方

 年々、日本語の崩壊を感じます。
 言葉は文化であり、言葉は、その国本来のものです。

 学習することが、「面倒」に感じてしまったのは、偏差値教育における弊害であると、私は信じます。

 勉強をイヤイヤやっている子供は、大人になっても、そこで過ごした期間をただ苦痛の日々としてしか記憶していません。

 しかし、天才は、それを苦しむどころか、それを楽しみとし、学ぶことの喜びを生涯忘れることはありません。


          学んで時にこれを習う亦説ばしからずや
                                    論語 学而篇

           之を知る者は之を好む者に如かず
          之を好む者は之を楽しむ者に如かず

                                    論語 雍也篇 




言葉は詩である

  言霊(ことだま)という言葉をお聞きになったことがあるでしょう。

 私達は、自分の好きな歌の中に描かれた詩によって、その時の自分の心と照らし合わせて、微笑んだり、涙を流したり、勇気を振り絞ったりします。

 その詩の意味を、いちいち辞書を片手に調べながら意味を考える方が、いったいどれだけいるでしょう?音やリズムにノリながら、なんとなく歌詞も覚えてしまったという方のほうが、ほとんどではないでしょうか?

 素読とは、まさに音の世界です。


 よく、素読の弊害を訴える方がいますが(意味がわからないのに無理矢理暗誦させられる)それは、知識教育で慣らされてしまった、私達現代人の考え方です。 

 私のお客様で、ある大学で教鞭をとっている準教授の先生がいらしたことがありますが、英会話を主としていらっしゃる方で、私は「どのように英語をお教えになっているのですか?」と聞くと、「いくつかのフレーズをそのまま記憶してしまうのがもっとも早い」ということをおっしゃっていました。これなども、素読をおこなってきた私達日本人のDNAに合った、とても素晴らしい教育方法だと思います。    



大人のための読み聞かせ

 最近、全国のいくつかの幼稚園でも、素読を復活させ、園児たちに読ませているところがありますが、何度かやっているうちに、園児達はすらすらと覚えてしまうそうです(もちろん、意味は分かっていません)。

 彼らは、言葉の意味を深く味わってなどいません。

                              


            「ただ、なんだか面白い」
            「音の韻律が心地よい」


 それだけ、なのだと私は思います。



塾長の体験談

 1983年公開の映画『時をかける少女』の中で出てきた、「少年老いやすく…」という漢詩は次のようなものです。

                少年老い易く学成り難し

                一寸の光陰軽んずべからず

                未だ覚めず池塘春草(ちとうしゅんそう)の夢

                階前の梧葉(ごよう)已(すで)に秋声


 劇中、この漢詩を、高校生の前で古文の先生として読み上げていたのが、俳優の岸辺一徳さん。
 当時、中学二年生だった私は、この詩の前半部分は辛うじて理解でき、後半はほとんど理解出来ませんでした。

 でも、その読み方と節回しがあまりにもおもしろくって、いっぺんで覚えてしまいました。

 いまだにあの言い回しで全文言うことが出来ます。何度か、紫微垣の講義にも登場(もちろん!あの言い回しで!)しました。

                              


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