私塾 紫微垣(しびえん) |
沙羅双樹 人は、どうしようもない困窮に陥った時、何を求めれば良いだろうか? 困窮に陥った瞬間、それまで自分が立っていたごくあたりまえの空間より、あなたは切り離され、あたりまえと思っていたことが、決してあたりまえではなかったことに気がつく。 そして、信じていたものが、途端に自分の敵のように感じ、自分がみじめで、みっともなくって、優しい言葉すら傷口に染み込む塩のようであって。。 人は人を完全に救うことが出来ない。 人が出来ることは、助けることだけである。 人を救うことが出来るのは、神仏である。 神仏は、心の捉え方などではなく、私達が認識出来ないだけで、ちゃんと実在している。 普段から、神仏とつながっている人は、すんでのところで救われるのである。これは大きい。 そういった意味で、困った時の神頼みでは、困る。 なぜならば神仏は、感謝の意に応える尊い存在であるからだ。 神仏と言って、ピンと来ない方もあるだろう。 神とはなんぞやと、自己の狭き世界観の中で神を認識しようとしても、それは無理というものだ。 神仏は、知覚するものではない。感じ、信じさせて頂くものだ。 “人は祖に基づき、祖は神に基づく”と言う言葉がある。 神とは、先祖である。 それなくして他の宗教を行うことは遊びである。 私は、人の手によって最近作られた宗教でさえも寛容であったが、あまりにもその被害が多いので、ここではっきり言っておく。 何でも拝めばいいというものではない。 拝めば願いを叶えてくれるわけではない。 中には、拝めば拝むほど人を不幸にする神さえいる。 何が正しいかは、拝んだ人間の周囲を見れば分かる。 何年も宗教をやっていて、不幸な人間が多いものは、罪悪である。 「わかりませんでした」では済まされない。 『人との義理』で宗教はやるな。 以下に、正しい神仏との付き合い方について記しておく。 @決していい加減な気持ちで拝まないこと。 A目の前にいらっしゃることを、信じ切ること。 B礼節は、礼拝から成る。身を正すこと。 C人の不幸を祈らぬこと。たとえあなたがそれで願いが叶っても誰かが不幸になったら、それは良くない祈りである。 D人事をつくして天命を待つこと。我執の祈りは、神には届かない。 次に、間違った宗教の見分け方を書いておく。 @親子の縁を切るもの。 Aやたらに金品を要求するもの。 B『偽・醜・悪』は魔である(清々しさの中に神は降りられる)。 C霊や輪廻を否定するもの。 D他を顧みず、われよしで傲慢なもの(神は和を重んじる)。 Eいけ高々で、不安を与えるもの。 (施無為=神は畏れを取り除き、生きる事、存在する事を認め安心を与える) Fたとえ良く知られた神社、仏閣であっても、神職・僧侶が怠り、金儲けに走っている場所には、行かない。 寺千代 |
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神仏を敬う