私塾 紫微垣(しびえん)


NO3、神仏を敬う


             沙羅双樹

 人は、どうしようもない困窮に陥った時、何を求めれば良いだろうか?

 困窮に陥った瞬間、それまで自分が立っていたごくあたりまえの空間より、あなたは切り離され、あたりまえと思っていたことが、決してあたりまえではなかったことに気がつく。

 そして、信じていたものが、途端に自分の敵のように感じ、自分がみじめで、みっともなくって、優しい言葉すら傷口に染み込む塩のようであって。。
 

 人は人を完全に救うことが出来ない。

 人が出来ることは、助けることだけである。

 人を救うことが出来るのは、神仏である。

 神仏は、心の捉え方などではなく、私達が認識出来ないだけで、ちゃんと実在している。

 普段から、神仏とつながっている人は、すんでのところで救われるのである。これは大きい。

 そういった意味で、困った時の神頼みでは、困る。

 なぜならば神仏は、感謝の意に応える尊い存在であるからだ。


 神仏と言って、ピンと来ない方もあるだろう。

 神とはなんぞやと、自己の狭き世界観の中で神を認識しようとしても、それは無理というものだ。

 神仏は、知覚するものではない。感じ、信じさせて頂くものだ。



 “人は祖に基づき、祖は神に基づく”と言う言葉がある。


 神とは、先祖である。


 それなくして他の宗教を行うことは遊びである。


 私は、人の手によって最近作られた宗教でさえも寛容であったが、あまりにもその被害が多いので、ここではっきり言っておく。


 何でも拝めばいいというものではない。

 拝めば願いを叶えてくれるわけではない。

 中には、拝めば拝むほど人を不幸にする神さえいる。

 何が正しいかは、拝んだ人間の周囲を見れば分かる。
 何年も宗教をやっていて、不幸な人間が多いものは、罪悪である。
 
「わかりませんでした」では済まされない。

 『人との義理』で宗教はやるな。



 以下に、正しい神仏との付き合い方について記しておく。

@決していい加減な気持ちで拝まないこと。

A目の前にいらっしゃることを、信じ切ること。

B礼節は、礼拝から成る。身を正すこと。

C人の不幸を祈らぬこと。たとえあなたがそれで願いが叶っても誰かが不幸になったら、それは良くない祈りである。

D人事をつくして天命を待つこと。我執の祈りは、神には届かない。



 次に、間違った宗教の見分け方を書いておく。

@親子の縁を切るもの。

Aやたらに金品を要求するもの。

B『偽・醜・悪』は魔である(清々しさの中に神は降りられる)。

C霊や輪廻を否定するもの。

D他を顧みず、われよしで傲慢なもの(神は和を重んじる)。

Eいけ高々で、不安を与えるもの。
 (施無為=神は畏れを取り除き、生きる事、存在する事を認め安心を与える)

Fたとえ良く知られた神社、仏閣であっても、神職・僧侶が怠り、金儲けに走っている場所には、行かない。



                                   寺千代



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