人生の書

30、「執着」と「支配欲」


 昨日、私の奥さんの久美さんの2日間に渡るホームコンサートが終了しました。

 コンサートには、ある小学校の学校の先生方もお見えになったんですけれど、その時に現在の子供たちのことについてのお話しになりました。

 家には、私の両親や、母の友人など、私や久美さんの小さい頃の「子供たち」を良く知る大人たちがいました。
 大人たちが、こんな質問をしました



「先生、昔の子供たちと今の子供たちと、何か違うことはありますか?」


 その前に…、私も、パソコンを子供たちに教えるという仕事で、何件か小学校にお邪魔したことがあるんですけれど、私が感じたこの質問に対しての私の答えを申し上げておきます。

「子供たちも先生も、昔とさほど変わらない。子供は子供だし、先生は先生」です。



 さて、先生は、子供たちの現状をお話しくださいました。

「子供たちが朝ごはんを食べずに登校して、倒れてしまう子がいるので、校長先生がそういう子を呼んで、校長室でカップラーメンを食べさせてあげます」

「怪我をしている子がいたのでどうしたのか聞いたら、お母さんが「明日、学校に行って保健室で手当てしてもらいなさいって言われた」というので、保健の先生は、そういう子達を手当てすることに最近なれました」

 私たちの世代の感覚では、ちょっと信じがたいお話しだったのですね。

 これ以上の詳しいお話しについては、どこまでが守秘義務になるのか存じませんのでこれくらいにしておきますけれど、そこにいる全員が、これは子供ではなくて、親が変わってしまったんだな…という結論に至りました。


 「現代の親御さんは、皆、働いていて忙しい」と先生方は、言います。

 しかしながら、
 「親は、子供よりも、自分のやりたいことを優先しているのだ」と言います。

 そして、「子供は親のペット」ではないのだろうかと言います。


 私は、「親が子供なのだ」と言いましたら、先生方は「そのとおりです!」と言いました。


 小学生の親御さんと言ったら、ほとんどが私たちより下の年代でしょう。

 ところが!ただ、若いからというだけではない。私たちの親の世代の中にも、そういった、子供よりも、自分たちのやりたいことを優先するという人種が存在するのです。


 
 それが、悲しいかな、私たちの親世代の中にも、存在している…。
 2013年。私の今年一年は、思えばそういった人種たちとの戦いの連続でした。
 人として決して尊敬出来ない、惨めで哀れな大人たち。。

 次の世代、子供たちの未来。
 周囲の人たちの幸せ。

 〜そんなことはどうでもいい。
 〜お前なんか、どうだっていい。

↓何かとあると決まって彼らは、このキーワードを口にします↓

 「『私』にはそれを得る『権利』があるのだ!」

 
 …ようは『執着』ですね。『我執』『我欲』

 (自分の思い通りにしたい)


 自分の思い通りにしたら、今度はそれを拡大していきます。

 『支配欲』。『征服欲』

 

 「運」というものについて、長年多くのことを学んで来ましたけれど、運の正体は「心」ですね。心が豊かでなければ、一度得ても、どこかで破綻する。悪銭身につかず。猫に小判。豚に真珠。


 私は、世界なんか欲しくない。
 すでに世界のすべてのものは、与えられています。
 すべてのものは、神様のもの。神様のものは、私たちのもの
 そして、私たちは神様の子。お借りしていた、この世のすべてのものは、死んだら全部神様にお返しする

 世の中には、自分の知識をひけらかしたり、実力のあることを、これでもかと世間様に強引に認めさせようとする輩がいますが、私にはどうして彼らがそうやって背伸びをして、分不相応のものを手に入れたいと思うのか理解出来ません

 きっと、心が貧しいのです。

 仏教でいうところの、餓鬼
 そこから出ない限り、彼らは永遠に本当の幸せはつかめません。

 
 私や妻は、他所様の家庭ほど、収入こそ豊かではありませんが、背伸びをして無理に認められようなんてしたくはないと思いながら、お互いにずっとそうやって生きてきました。
 天から与えられた、生まれたまま、ありのままの心と体を使って、私たちの出来る限りのものを伝え残して、世間様からさらに学びを得、寿命が来たら「今までありがとう」と言って、死んでいく。

 それが、成功だろうが失敗だろうが、私たちにそんな物差しは必要ない。

 ただただ、つまらないことで心を痛めて、自分の人生を無為にしたくはない。







                                  2013.12.18 寺千代

戻る