人生の書

28、判るということ判らないということ


 人の相談を受ける時に、もしくは人様のことを考えてあげるときに、まず覚えておかなければならないことがある。

 それは、彼があなたと違う人間であるという事実である。

 現代人は、兎角、頭が良い

 頭が良いことは、良くないことよりも、良いことなのだが、だからといって、自己の知識に照らし合わせて、人をはかり、『判る』という前提のもと、人を見下してはならない。


 人の心を扱うものに、宗教心理学があるが、私が心理学を好きではなかった理由に、それが人の心が『判る』という前提に立って、人を見下すきらいがあったからである。

 私が成人して、20年あまり…

 かつては、心療内科という言葉さえも、いぶかしげに思われていた時と比べ、心理学も実際の統計に触れて研究が進み、かなり進歩してきたように思える。
 しかしながら、統計は統計であって、それらがすべて、目前にいるクランケのパーソナリティにあてはまるとは限らない。

 私が宗教が好きなのが、人の心(の奥深く=神なる部分)は、判らないという前提があるからである。
 もちろん、彼の教団を潤すために、信者を狂信的にさせてしまう愚かな神は、その限りでない。

 あくまでも、人は判らない。人である私は、完全ではない。相談に乗る者が、相談を持ちかけられる者よりも、決して偉いわけではない。ただし、それぞれの立場において尊重しなければならないというスタンスに立たなければ、人としての社会的規範のあり方さえも崩れていってしまうことは事実である。


 とにかく、人は人を完全に理解することは出来ない

 長年連れ添う、夫婦や親子でさえ彼のことを判らないものが、他人である私が人様のことを裁ける訳がないのである。
 

 世に『先生』と呼ばれる職業は、多い。

 しかしながら、人の手本となるはずの「先生」が、人の可能性を摘み、訳も無く威張り散らしている人間がとても多い。

 これは、すべて人より知識を得て秀でているという勘違い、言わば傲慢より来るものである。

 医者、裁判官、弁護士、占い師、宗教家、教師、人を教え導く者は、このことに特に気をつけなければならない。

 人を裁く者は、常に、当人に内在する良心のみである。

 私はこれを、と呼ぶ。

 常に私の神と、目前に居る者の神との対話がなさればければならない。

 常に、自分が間違っているのではないだろうかと、真実の鏡に良心を映し出して、省みなければならない。

 そこではじめて、人は、万物の霊長である人としての存在を、自他共に認められるのである。
 良心を照らし出すその行為こそ、祈りである。人の行為のなかで最も尊いことである。

 



                                  2013.11.21 寺千代

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