人生の書

26、師は得がたし


 「先生」という肩書きのつく人間は、たくさんいる。

 「人間」と書いたが、かつての「先生」は、「人物」であり、一般の「人間」より何事かに優れ、逸脱した人間であった。


 昨今、先生たる人物は掃いて捨てるほどいる。

 学校の先生から、塾の先生、各種習い事、病院の医師、政治家のことも先生と言うし、神主さんなども、実は「先生」と呼ばれているのだ。

 現代のように、働いてお金を得るために、資格を取って「先生」と呼ばれる人がいることは否めないが、本当の意味での先生というのは、人生の師のことである。
 道を示す導師のことであると、私は想っている。


 すなわち、“先に生きるもの”が先生であり、そう解釈するのであるとしたら、「先生」は各個人によって、先生にもなれば、先生でなくなる場合もあるのだ。


 道を示す導師が、先生であると私は書いたが、果たして皆さんの人生の中で、いったい何人の先生に出会うことが出来るだろうか?

 もちろん、すべての人間を手本とし、かつ「こうはなりたくない」人間を反面教師として、心に留めおくことも出来る。しかしながら、私が43年生きてきたなかで、本当の意味での師と呼べるものは、限りなく少なかったのだなと想う。

 それはまず、自らが求めるものが、その人物になければ話にならない。
 次に、ある程度の人格者というか、目上目下に限らず、礼節を欠いているものは、その教えが本当に正しいかどうか、にわかに信じがたいからである。
 最後に、自分の生涯の心の先生と呼べる人間が、果たして有名人とは限らないということである。

 有名人とは限らないということは、どういうことかというと、これにはさらに二つの要因をご理解いただきたいと想う。
 みんなにとっての先生というものが、あなたの魂を打ち震えさせるような何かを持っているとは限らないし、もう一つは、能力が高い者が、あなたを救い、あなたを導くことが出来るとは限らないからである。

 これは、たとえばあなたの両親を見ればよく分かる。

 誰もが一度は、うちの親より〜ちゃんのお父さんやお母さんっていいなと想ったことはないだろうか?

 これは夫婦関係にも言える。

 〜の旦那さんは、優しくてよく気がついてくれるけれども、それに比べてうちの旦那は…とか、〜の奥さんは 美人でスマートで周囲にも家の人間とも外の人ととも上手くやっているみたいなのに、それに比べてうちのかみさんは…なんて、ことは、皆さんすでにご経験のあることと想う。

 
 師は得がたし。

 要するに、師とは縁あるものでなければ、あなたの師とはなれない。

 お金を払い、有名な先生のところに行ったからといって、それがあなたの人生を変える程の力を持っているとは限らないのだ。
 もちろん、彼がその人である場合だってもちろんある。

 ところが、あちこちを転々としながら、本当の師を探し求めているような方は、すでに本当の師に会っている可能性が高くなってくる。これは本当の職場でも同じことが言えるし、本当の理想の相手でも同じことが言える。

 たとえ相手のことを、それほど好まず、自分の理想とかかけ離れていたものであったとしても、縁あるものであるとしたら、それはあなたの師なのである。
 その人物とは、前世でもあなたの師であった可能性が高い。
 前世も今世も、あなたは結局はまったくおなじことを、おなじ師匠から何度も学ぶことになるのである。

 

 

                                  2013.9.29. 寺千代

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