人生の書

24、「見てはいけない」


 最近、こんなことがありました。

 ちょっとした言葉の行き違いが重なって、私から去って行った一人の女性がいました。


 彼女は、一年ほど前に、多くの悩みを抱えながら、光を求めていました。

 私は、その時すでに個人鑑定を辞めていましたが、ただ身内からの紹介ということもあって、とにかくお会いして話を聴いてみたんです。
 私は、お話しを伺いながらも、強い霊的な感性のおかげで、向かい合っているだけで何が問題か瞬間に察知しました。

 それはこうでした。その時抱えていらした環境もさることながら、彼女から、非常に強い霊的な差配を感じたのです。私ではとても手に負えないと考え、ある宗教家の方をご紹介申し上げたのです。


 
 その時、実はもう一つ気になったことがあります。彼女の性格から来るものだと想いますが、からみつくような話し方、しつこさといったものがありまして、…とにかく話が長いんですね。句読点を打たないような畳み掛ける話し方を続けていかれる。

 彼女が話せば話すほど、こちらの身体が重くなってくることを感じたんです。

 そんな方を、力のある先生にご紹介差し上げるには、私にも責任があるのです。

 ただ、彼女の今までの実績や、辛いことも必死で耐えてこられた経緯をみて、現在の私ではとても太刀打ち出来ないが、これを機に神仏の力によって救われれば、必ず今ある試練乗り越えていただけるだろうと想ったから、宗教家の先生にもご事情をお話して、しかるべきお祓いをしていただきました。


 
 それからしばらく、私は彼女のことは忘れていました。宗教家の方からも、特に連絡をいただいていませんでした。

 そんな折、昨年の秋頃、その方と街でばったりと再会しました。その時は、彼女とお会いしても、誰だったか分からなかったのです。
 それは、彼女があまりにも変わってしまっていたからで、その時は本当に誰だか分かりませんでした。すっかりと元気を取り戻して、前向きに進んでいる様子でした。

 
 また、それに前後して、私の家族との交流があったことから、私自身もふたたび、その方と接触することになりました。
 彼女は私を恩人であるとおっしゃり、お会いする時は、いつも丁重な態度で接してくださることに、私は好感を持ちました。

 それでも変わらなかったのは、いまだにお話しが長く、途切れないことでしたが、私も彼女から、有益な情報を得たり、また彼女の持つ、ある才能にも惹かれるものがありました。家族で良いお付き合いが出来るかも知れない、そんなことが思われた矢先だったんですね。



 私は、紫微垣の開講と共に、新しい占術の研究をしていますが、不思議な雰囲気を持ったこの方のパーソナリティを、知ってみたい欲求にとらわれました。
 そこで、何度かお会いしたなかで、「鑑定というわけではないけれども、命式を出してみて良いか」を尋ねたところ、「ぜひお願いしたい」ということでしたので、早速彼女を占ってみたのですね。


 誰にでも良いところというのはあります。
 そして、どんなにつらく苦しい人生を送っている方でも、必ず救いはあります。


 私は、その救いのキーワードを重視して、ほんの短い時間でしたが、彼女に、占って出た命式から見た彼女自身のパーソナリティを、必要な言葉を抽出しながら伝えました。



 (いま思えば、実にその瞬間からだったと想うのです。)

 いつも私の前で丁重な態度で接してくれたこの方が、なんだか急にふにゃふにゃした態度を私に見せ始めたのです。

 その時は、私の家族もその場にいて、あとで聞くと、「私の前では、彼女はいつもこんな感じ」なのだそうでしたが、私は彼女のあまりの変化に、嫌悪感さえ覚えたのですね。
 
 自分の夢や、特質や、また恋の話などもご自身で語られていましたが、“親しき仲にも礼儀あり”を正に欠くような、聴いているこちらの感情などまったく無視したような話し方に、すっかり辟易してしまったんです。

 その場は、そのまま黙って彼女の話を聞いていたのですが、、このままではいけないと思った私は、その夜、言葉を選びながら、彼女にメールでそのことを伝えました。
 それに対して「お教えいただき、ありがとうございます」という返信をいただきましたが、肝心な忠言に対する回答はなく「慇懃(いんぎん)無礼」「糠(ぬか」)に釘」の態度を彼女から強く感じました。

 あとで家族に聞くと、やはり私のことを色々言っていたようです。しかし私には、一切、そのようなことは言わず、言葉づらだけ見ていたら、まったく納得しておられるように思えるメールのやりとりがありましたが、それでもやはり私が深読みにしたように、彼女は私の忠言を何一つ良しとせず、すべて否定も肯定もしない言葉を返しながら、心ではまったく逆のことを想っていたようです。



 どんなに言葉を駆使したところで、メールというものは、誤解を生じやすいからに違いないと私は想いました。
 私も自分に否があることを認め、一度会ってお話ししたいことをさらに伝えましたが、彼女はその返答を私にではなく、私の家族に「その意志はない」ことを伝え、私にはさらに「ありがとうございます。先日いただいたメールの回答は、ご家族にお伝えしました」とのメールを送って寄こしました。

 家族には、私の言葉で「傷つきました」と言っていたそうですが、彼女自身の否を全く認めようとしない「我良し」のみの態度に、私は「消沈」していました。



 …で、ここからが本題になります。


 私は、彼女の深層心理が理解出来ませんでした。
 心と言葉と行いとが、すべてバラバラなのです。

 「ありがとうございます」と何べんも言いながら、まったく違うことを心で想い続ける彼女に、言うべき言葉を失いました。

 今回のことで、私との縁が切れたとしても、私の家族との縁がまだつながっていることを、私は快く思えませんでした。それは、彼女の吐き出す、不定形な自己愛に彩られた悪しき言霊の餌食に、家族が疲れ果てているのを見るのが忍びないからです。


(どうしてこんなことになったんだろう…)

 私は、この方がある時借してくださった一冊の本のことを思い浮かべました。


 その本とは、日本人なら誰もが良く知っている民話「鶴の恩返し」です。


 
 『鶴は、自分の命を助けてくれたおじいさんのために、自分の羽根を抜いて、りっぱな織物を織りました。おじいさんは、それが自分が助けた鶴だとは夢にも思わず、目の前に現われた孝行な娘を、まるで自分の娘のように可愛がりました。娘の姿をした鶴が織った織物は、町で高く売れました。おじいさんには、「織るところを決して見ないでください」と言っていた娘でしたが、おじいさんは、娘との約束を破り、こっそりと娘の本当の姿を見てしまいました。朝になって、娘は織りあがった織物をおじいさんに渡すと、鶴の姿に戻り、どこかへ飛び去ってしまいました』


 「見てはいけない」というのに、見てしまった物語は、世界中に存在します。


 占いを観て差し上げた彼女が、変貌を遂げたのも、私が占いの結果を伝えた瞬間でした。その方はきっと、「お願いします」と口では言っていたものの、本当は心を「見られたくなかった」のではなかったのかと、今、思うのです。


 お客様でもない方を、半ば興味本位に占いを観てしまったから、その方は本当の姿を現して、どこかへ飛んで行ってしまった。そのように思えるのです。







                         2013.2.26. 寺千代

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