人生の書

21、縁について


 最近、塾生たちとは「道」について論ずることが多い。

 右か左か?について思う時、皆さんは何をもって、その判断とするだろうか?


 人は、決意するには、何等かの後押しが必要である。

 要は、その人が何を信じ、道を行くか。
 「信条」という一語に言い換えられることと思う。



 人は何かを信じなければ生きていけない。

 それが、国であるのか、人であるのか、家族であるのか、
 はたまたお金であるのか?

 神様や仏様という方もおられることであろう。

 経験則をほとんど絶対視する方もいらっしゃると思う。


 合理的な考え方をもって、損か得か?自分に必要かそうでないか?のみで判断する方がいるが、このやり方はいつかどこかで、他人と衝突することになる。

 それは、この人のために誰かが犠牲になる可能性が大いにあるからである。





 「無用の用」という言葉がある。


 自分には「必要ない」「生きるのに不必要だ」と思っているいないに関わらず、
作用している森羅万象の働きである。
 
 私はこの言葉が大好きだ。

 人間ひとりの知識や判断力など、私はたかが知れているといつも思っている。


 「運が良い」「今が幸せだ」と思われている方は、ほぼ正しい選択を繰り返し、
また彼・彼女なりに努力を続けて、手にした貴重な幸せであろう。
 
 私は、そのことを特に咎めるつもりはない。


 しかし、人とは違うなにかを求め、生きるのに不器用だけれども、正直で、なかなか芽が出ないような方を、私はとても愛おしく思っている。

 芸術家や、宗教家や、またほとんどの人に普段顧みられない存在かも知れないけれど、ある時ふいに思い立って、探しても、なくてなくて、同じ業種の店を何件も廻ったあとに見つかったこだわりの一品のような、そんな稀有な存在。
 かく言う私も、そんな人間の一人でありたいといつも思う。



 
私は、要不要という考え方が大嫌いだ。

 年齢も関係ない。
 性別も関係ない。
 資格や経験則や、常識や世間の目を恐れていたら、何も出来ない。


 普通の人が、結婚相手や、自分の一生の仕事を決めようという時に、
 収入がいくらとか、有給休暇が何日あるかとか、
 この人はこういう癖があるから、ちょっと敬遠しておこうとか、これだったら、安心で安全だとか、
 世の流行や、安全や安心の規範ばかりを求めていくことを繰り返していたら、確かに生活は出来るかもしれないが、それでは何のために生きているのだろうか?

 その人自身は、どこに行ってしまうのだろうか?


 特に、経営者の方や、自分で何かをされたいと思っている方は、少なくとも世の流行をそのまま追っているだけでは、いつしか道を見失ってしまう。



 私が道を決める時、それは、すべて「縁」によって成り立っている

 これは、と思って飛びつくと失敗だった。
 いい人と思って付き合ってみたら、とんでもない詐欺師だったなんていうことを、悲観する方がいるが、それらはすべて、当人の「運」と「縁」によるものである。

 人を責める前に、自身の不徳の成した結果だと思って、より向上しなければならない。

 そんな失敗を繰り返す人にあっても、真心を持って、努力することさえやめなければ、救いの御手は必ずや現れる


 人は、運の中に生かされ、そして縁をもって、大道を知るのである。



 無理して悪人や、自らを陥れるような人間と付き合う必要はないが、
人間らしさを欠いた欲望と、頭で割り切った、冷たい人間に成り下がるようなことは、決してするまいと、私は思う。



「世を知り、人を知る」
縁によって生かされ、縁によって死んでいく。

 そう思ったとき、いばらの道の選択もまた、雨の中の人生もまた、
 美しく、魅力的で、愛おしささえ感じられて来る。


 地獄の針の山の上にも、仏はいる。
 極楽浄土のとてつもなく高い山のてっぺんにも、仏はいる。

 観音様は、いつも見ている。
 誰も知らなくても、誰にもわかってもらえなくても、観音様はすべてを知っている。


寺千代



                               2013.1.28寺千代



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