人生の書

18、命の宝


  「人が忘れてしまった大切な宝物」とは、すなわち“道“のことである。

  魂(たましい)のことである。

 
  私が、あなたが生きているように、他の存在もまた、おなじように生きている。
  人も、鳥も、花も、草木も、弱い者も強い者も、皆、公平に、神様から、この命を預かって、生きている。

  生きるためには、食べなければならない。
  食べるためには、働かなければならない。
  働くこととは、お金を稼ぐことである。
  お金を稼ぐには、人からお金をいただかなければならない。
  だから手段は選ばない。一定のお金を稼ぐために、働く。

  一見、正しいようだが、私たちは、食べるために生きているのではない。

  「人はパンのみに生きるにあらず」と、キリスト様も言っているではないか?

 
  多くのパンを稼げる人間と、そうでない人間の違いは、物質的な豊かさである。
  しかし、これはイコール人生ではない。

  また、善と悪という考え方についても、法律に違反しているから、悪であり、皆に好かれているから善であるとは限らない。
  前者については、徳川五代将軍の「生類哀れみの法」がそうであるし、後者については、大宗教家、「日蓮上人」その人など、どれほど人に嫌われ続けたか知れない。

  
  『生きる』ことで、あなたの魂を曇らせてはいけない。
  生きるとは、あなたの心が、魂が活き活きとしている状態にある。
  生きがいこそ、人は自分自身を活かすことが出来るのだ。

  生きながら死に、死ながら生きている者もいる。

  私は、世の中の人、すべてが活き活きとする法を考え続けてきた。
  偏った思想によらず、人類のすべてが、生きることを認められ、与えられた命を存分に生かすことの出来る法則を求め続けてきた。

  それが、「天の道」である。


  江戸時代の儒学家、中村藤樹先生は、道(真理)について次のように述べている。

「道と法とは別である。一方を他方とみなすことが多いが、それは誤っている。法は、時により、中国の政権によっても変わる。わが国に移されればなおさらである。
  しかし、道は永遠の初めから生じたものである。徳の名に先立って、道は知られていた。人間の出現する前に、宇宙は道をもっていた。人が消滅し、天地がたとえ無に帰した後でも、それは残り続ける。
  しかし、法は、時代の必要にかなうように作られたものである。時と所が変わり、聖人の法も世に合わなくなると、道のもとをそこなう。」



2012.11.11寺千代



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