人生の書

15、人から自分の間違いを正してもらうには


 人には、様々な悩みがあります。

 日常におけるごく小さな悩みから、人生の岐路に立つような大きな悩みまで。


 小さな悩みは、ふとした気づきだとか、ちょっとした努力で、軌道修正がいくらでも可能です。

 しかし、何度決意しても犯してしまう、本人の性格や思い込みから生じる積年の粘着質の悩みや、突発的な大きな事件や事故で、もはや自分一人の力では、修復不可能な悩みの場合、自分の頭の中でいくら考えたところで、もはや良い考えというのは、なかなか浮かばないことでしょう。


 
 そんな時、人は他力を求めます。

 いちばん手っ取り早いのが、それに関するを読むこと。

 最近は、インターネットの情報も、辞書のように使いこなせば良いでしょう。
 ただし、それが正確であるかは、保障がないということ。

 次に“人”に相談することです。


 しかし、人生を安易に考える人は、一の行程をすっ飛ばしてすぐに人に聞きます。


 人というものは、必ず、聞いた相手の人生や性格というフィルターがかかった回答を寄こしてきますから、必ずしも自分の求めていたものに、ぴったりと当てはまるというわけではありません。

 また、その相手が、あなたを本当に指導出来る立場の御魂の持ち主であるとしたら、彼より発せられるその言葉は、決して甘く優しいものであるとは、限りません。
 否、強く厳しい、ショックを受けるものであって、然るべきであると私は考えます。



 若(も)し薬(くすり)瞑眩(めんげん)せずんば、その病(やまい)?(ひい)えず
                               『書経』 説命(えつめい)篇

意味:
その薬が飲んでめまいを起こすほどの強いものでなければ、病気を治すことは出来ない。

転じて:
耳に逆らうような忠言でなければ、過ちを改めるまでにはいかないという意味です。



  ところが、安易に、ただ現状の悩みから脱したいという欲望から、本来、自分の力で越えなければならない御魂の修行を、人に肩代わりさせようとする人に限って、その言葉の中から自分に足りない何かを学ぼうなどとは思わず、ただショックを受け、ただ傷つき、せっかくの上魂からの忠言を、こともあろうに言い返すような方さえ、いらっしゃいます。

 これでは何のために悩みがあるかわかりません。
 こういう時こそもっとも「勿体無い」という言葉が似合います。

 せっかくその人の成長を思って天が与えた修行のチャンスを、ミスミス逃してしまうわけですから、次のチャンスがやってくるのは、相当先ということになるからです。



  松下村塾で弟子達に教えを説いていた、師の中の師吉田松陰は、その著書『講孟箚記(こうもうさっき)』の中で、このことについて次のように述べています。


  めまいを起こすほどに強い薬でなければ、病は治らないというが、この薬がなぜめまいを起こすかということになると、志を立てたものでなければ、理解することが出来ない。

 皆、善を好み、悪を憎むというけれども、百人、千人、万人に傑出した人物になろうと思う人は、一向に見当たらない。

  自分で実践することもなく、聖人になるとか、りっぱな国にするとか、重大な問題を、まるで茶漬けでも食うように無責任に放言する者がいるが、そんなことでは到底、強い薬が起こすめまいの意味など知ることはできないであろう。


 

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