人生の書

11、占いとキリスト教


 私が占い師になったのは、19歳の頃から「人を救いたい」というどうしようもない想いが高じて、形になったものです。


 この頃から、無形と有形、絶対と相対という考え方に大変興味を持っていました。つまり、良い高校を出て、良い大学を出て、良い会社に勤めて偉くなるという、世の中で良いとされていることの一元的な考え方に疑問を持ったからです。


 つまり、良いとされる中にも、悪があり、悪とされる中にも良いものがある。

 私は、こう思いました。

 ひとつの形成するということは、実に分りやすい。でも、形あるものは必ず限界があります。
 私は当時、「坊主になれ」と識者の方たちから言われておりましたが、、坊主にならなかった理由は、そんなところにあったのかも知れません。


 丸山先生という私の占いの師匠と会って、先生は善光寺で修行を積まれたお坊さんでしたが、「坊主では人は救えない」と常々思われていたんですね。それで占い師になった。
 私も人が救いたいから、占い師になったんです。


 でもね、形のないものというのは、兎角、批判の対象にされやすいわけで、形のないものは、妖しいとされる風潮があるんですね。

 これは、皆さんにそれぞれ学習いただきたいんですけれど、形あるものに民衆の心をひとつにまとめてしまったほうが、まつりごと(政治)がしやすいという歴史があるんです。


 日本の仏教しかり、キリスト教の歴史しかりですよね。


 そうやって、人々の心の中に、これは良いこと、これは悪いことと、善悪の基準を植えつけることで、人の世は治まっていくという。
 ところが、時代の政為者ではないものが、たまに神の声を聞いてしまうことがあります(これは、聖書の中にも預言者がごまんと出てきますよね)。

 当時、キリスト教も迫害の対象でした。そして、ある時から、キリスト教が保護されるようになったんです。


 私は、占い師になるまで全く知らなかったのですが、キリスト教は、占いを否定しているという事実。

 これには驚きました。

 だって、私にとって占いとは、妖しいものでもなんでもなく、人を救う手段そのものであったからです。神主さんも占いを使っていますし、お坊さんも命名などされる方がいらっしゃいます。
 当然のことながら、占い師も同様に思われているのかと思いきや、そうではないのですね。

 私は、占い師になる気は、まったくありませんでしたが、占いと出会い、その占いの持つ哲学の深遠さに、心打たれたのです。
 たとえば、易経とは、皆さんよくご存知の『易』を解説した書物ですが、これは何も占いの仕方が書いてるわけではなく、人としてのあり方、春夏秋冬、老若男女、それぞれの立場、幸、不幸の状態における、心のあり方、人としての生き方、行動の仕方が書かれているのです。

 古代、中国の官吏になるためには、必読の書でありました。私は、どちらかと言えば、占い師というよりは、易者に近いものがあります。当たったか当たらないかには、さほど興味がありません。
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 さて、キリスト教徒は、聖書に書かれているこの箇所をもって、占いを否定します。

申命記】

あなたが、あなたの神、主の与えられる土地に入ったならば、その国々のいとうべき習慣を見習ってはならない。

あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。

これらのことを行う者をすべて、主はいとわれる。これらのいとうべき行いのゆえに、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるであろう。

あなたは、あなたの神、主と共にあって全き者でなければならない。

あなたが追い払おうとしているこれらの国々の民は、卜者や占い師に尋ねるが、あなたの神、主はあなたがそうすることをお許しにならない。

ところが、

同じ申命記の中に書かれている

33章第8節
レビ部族への祝福のことば。
ウリムとトンミムを敬虔なレビ部族にお与えください。
や、

出エジプト記 28章第30節 
あなたはさばきの胸当にウリムとトンミムを入れて、アロンが主の前にいたる時、その胸の上にあるようにしなければならない。こうしてアロンは主の前に常にイスラエルの子たちのさばきを、その胸に置かなければならない。

 ウリムとトンミムとは、神官がご神託を伺うのに使ったといわれる道具。つまり占いのことです。このことからも分るように、聖書自体は、占いを決して否定していません。

 私は、子供の頃なぜかキリスト教が大好きだったのに、一部のキリスト教徒たちから、強い罪悪感を被せられてしまいました。

 占いの先輩から聞いたとこによると、キリスト教圏であった当時ヨーロッパの人たちも、占いが大好きだったそうです。そしてそれによる、害毒が起こり始めました。依存心です。人々の心の方向性をひとつにし、人々の考え方を治めていくには、聖書による占いの禁止とすることがもっとも早い手段だったのでしょう。

 しかし、そのことでまたもや、形なき者は、世の犠牲となるわけです。
 私は、私自身の身を守ってやらなければなりません。


 「理解されぬ者について、理解することをせず」
 これは、私の中で生きる力となっている信条のひとつです。

 私は、すべてを肯定し、受け入れる、古神道の信者ですが、こちらがそのつもりでも、武力をもってねじ伏せてくる勢力に対して自衛の処置を取ります。

 キリスト教の専門職についておられる方が、占いについて良心的な見解をされていることを知り、この問題について私の意見を公開することを決意しました。

三十番地キリスト教会さん

キリスト教神学者、牧師の野呂芳男さんの講演より

上記お二人の「占いに」ついての姿勢は、私も大いに同感すべきものがあります。私は、占いに「絶対」を求めてくる方たちが、怖くて仕方ありません。人が幸せになるためには、もっと他に学ぶべきことがあるはずです。

私は占いという心の世界の窓口から、そのことを懸命に伝え続けていたはずだったんです。

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