私塾 紫微垣
「人」として「人」にしてあげられること

祈り

〜 神との誓約〜 



 何を見、何を聞き、それについてどう想い、何をしてきたか。

 それは、彼にしか判らないことである。


 自由という名のもとに、他者の自由を侵害するお節介な輩が、「我は正義である」と言って憚(はばか)らない。


 何人たりとも、彼の善悪を裁いてはならない。

 もし、そのような者が存在するとしたら、その者は間違いなく『偽善』を行うものである。自分を知らぬ哀れなものである。


 彼は神との誓約によって、自らに対し一生掛けて裁くであろう。。神の称号を持たず、未だこの世に留まる人であるものが、彼を裁くことは出来ない。

 本当の善悪を知る者は、神のみである。
 彼自身にでさえ、何が本当の善であり、何が悪であるかを知るすべを知らない。

 慈善心から、彼を責めることをしてはならない。


 彼を責める者は、自ら積み重ねた罪を、己自身で裁くことなく、それもすべて彼に覆い被せて、やがて彼を殺すだろう。


 神は、人に、ただ愛する者を守る時のみ、戦うことを許される。

 神の名を語り、彼を殺すことを、神はお許しにならない。

 彼こそは、神の御子であることを、いま知れ。

 人が、同胞たる彼を想うとき、人に出来ることは、彼を思いやり、許し、なぐさめ、彼と他の同胞と同様、愛の祈りを継続することのみしか進む道はない。


 何人たりとも、人は常に間違いを犯し続ける、哀れな存在である。

 間違った「正義」の想いこそが、人の罪びとたる所以(ゆえん)である。


 神に祈りたもう。

 それこそが、人を愛の存在から遠ざけぬ、もっとも早くもっとも確かな、真の正道を歩み行く方法である。


                                              寺千代
                                                   2013.11.4


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