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きらきら星変奏曲 ハ長調K.265
12 Variationen uber ein franzosisches Lied
'Ah,vous dirai-je, maman'


ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
(オーストリア)
1756-1791




【大吉】









『きらきら星変奏曲(原曲名:Ah,vous dirai-je, maman)』は、

オーストリアの作曲家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756年1月27日-1791年12月5日)
が1778年に完成させた曲です。

この作品は、日本の私達にとてもなじみのある童謡『きらきら星』
のメロディーを主題とした12の変奏からなっている大変美しい曲です。

誰にでも口ずさむことの出来る簡単な原曲が、

モーツァルトの手によって、どのように変化を続けていくのかを見ることは、

クラシック初心者にとっても、実に興味深いものです。

 







きらきら星変奏曲







では、『きらきら星変奏曲』占ってみたいと思います。

この「きらきら星変奏曲」の名前を見て、
「え?きらきら星ってモーツァルトが作ったの?」と思った方も多いはず。

ところが、この曲はもともと18世紀末のフランスで流行した、
シャンソンの曲だったのですね。
題名を「Ah! Vous dirais-je, Maman"(ああ、お母さん、あなたに申しましょう)」と言い、
この歌の歌詞の中で、一人の女の子が恋の悩みを母親に打ちあけています。

その曲を、モーツァルトが変奏曲として、編曲しました。

さらに、このシャンソンの曲は海を渡り、アメリカで童謡となりました。
その際、イギリスの詩人、ジェーン・テイラーの英語詩 “The Star”がこの曲につけられました。
1806年のことです。
皆さんがよく知っている
"Twinkle, twinkle, little star"(きらめく小さなお星様)という歌はは、
元々シャンソンだったAh! Vous dirais-je, Mamanの替え歌だったのです。

そして、これはモーツァルトが亡くなった後のお話しです。
つまり、モーツァルトはこの曲をお星様をイメージして作ったのではない、
ということになります。

モーツァルトがこの曲に込めた想いとは、どんなものだったのでしょうか?


まずは、モーツァルトの生年月日と名前で、
モーツァルトとはいったいどんな人だったのか?を
観てみることにしましょう。




モーツァルトは、1756年1月27日生まれ。
九星:「二黒土星」 干支:「庚寅」
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart)

オーストリアのザルツブルグに生まれる。

父親の家系は代々職人の家系で、
父、レオポルト=モーツァルトは製本職人の家系でした。
レオポルトは、特別頭が良くザルツブルグの大学に入り、哲学と法律を学ぶが、
一年経つと音楽に夢中になり、やる気のなさから、退学になってしまいます。
しかし、その後ザルツブルグの名門トゥルン伯爵家に秘書&音楽師として仕え、
その後真面目で努力家の才が認められ、
大司教の宮廷楽団のヴァイオリン奏者、音楽教師として、活躍しました。

母、アンナ=マリア=ペルトゥルの父は役人でしたが、
幼い頃亡くなり、母の手によって育てられました。
陽気で快活、物事にくよくよせず、大声でよく笑うような人だったそうです。
家事に熱心で、家計の切り盛りをしっかりとする人でした。


モーツァルトは、兄弟が6人いましたが、あいついで亡くなり、
マリア=アンナ(通称ナンネル)という姉が一人残っただけでした。
モーツァルトは、両親の7番目の子供でした。

父親は、ナンネルにクラビアのための自作の楽譜帳を与え、
有名な作曲家のやさしい曲を教えました。

1759年(3歳)五歳年上のナンネルが練習しているのを見て、
姉のマネをして初めてクラビアを弾く。
1760年(4歳)父親について本格的に音楽を習う。
また、この頃、教会や修道院の他に、公立の学校も出来初めていたが、
読み書きや算数・歴史・地理などもすべて彼の手によって教えらた。
1761年(5歳)初めての曲を作曲する(協奏曲)。
1762年(6歳)父、ナンネルとともに演奏旅行。
ヨーゼフ三世、マリア=テレージアの前で演奏する。


「ザルツブルグという街」

ザルツブルグは、現在オーストリアの地方都市ですが、
この頃は神聖ローマ帝国の都市のひとつでした。
実際はドイツ民族によって創られた国家でしたが、
かつての古代ローマ帝国を偲び、またキリスト教の権威を併せ持つ意味から、
こう呼ばれました。

街にはイタリア人の設計した建物がたくさんあり、
ローマ(イタリア)の文化が色濃く表れています。
丸い屋根の大聖堂や、中世風の家々、また、
フランスを中心に流行った、ロココ風と呼ばれる美術や建築の、
噴水庭園やなどがありました。

これらは、大司教と呼ばれる者たちが作り上げた者であり、
大司教は、ローマ教皇から代々任命され、カトリックを広める役目がありました。

大司教達にとって、もっとも楽しみだったものが、
音楽と演劇でした。イタリアの音楽家たちによって作られた宮廷楽団は、
宴会や式典で盛んに演奏が行われました。


「音楽の天才」

「神童」と呼ばれたように、モーツァルトの持って生まれた音楽の才能は、
人並みはずれた素晴らしいものでありました。

5歳のモーツァルトの手によって作曲された曲の楽譜を、
本職の父親とトランペット奏者のシャハトナーが見て、
びっくりしました。
「これが五歳の子供の書いた曲だって?」
それは、規則通りに書かれておりましたし、
また演奏が困難な難しい曲でもありました。



「九星で見たモーツァルト」

さて、そんなモーツァルトが生まれた年の星は、二黒土星。
大変な努力家で、真面目な星。また、「物覚えが早い」というのも、この星の特徴です。

また彼の生まれた月の九星は、九紫火星」という星であり、
物事を深く考えるよりもなお、直感を信じ、また生活は派手で、
落ち着かず、美しいものに心を奪われやすいというところがあります。



モーツァルトの名前も、非常に興味をそそられるところがあります。
名前の運勢は、普通より少し良いくらいですが、
周囲の環境に翻弄されるところがあり、
それでもくじけず、わが道を突き進むところがあります。



「父、レオポルトの野望」

この頃の音楽家は、いくら演奏や作曲に優れていても、
それだけでは一人前の音楽家として認められませんでした。

映画やラジオ、TVもありません。
一般の人たちからお金をもらって、
ホールで演奏することも出来なかったのです。

王侯貴族にやとわれる以外には、
作曲や演奏をして生活する術はありませんでした。
だからこそ、音楽家にとって、最高の栄誉は、
宮廷楽団の団員となることだったのです。

しかし、実際の音楽家の地位は、
その頃の主人の注文のままに演奏をし、作曲する、
言わば召し使いに過ぎませんでした。

でも、父レオポルトには野望がありました。

「我が子の名を多くの人に知らしめ、一家の生活も豊かなものにしたい」

その想いを果たし、
モーツァルト、そして姉のナンネルたちの才能を、広く世間に認めさせる方法は、
演奏旅行しかないと彼は思いました。



「旅から旅へ」

モーツァルトが、父と姉ナンネルとともに、
最初の演奏旅行に出かけたのは、
彼がまだ6歳にも満たない頃でした。
それから、モーツァルト親子の長い旅の人生がはじまります。

一回目の演奏旅行
1762年1月  ザルツブルグの北西にある、バイエルンの首都ミュンヘンにて、
         選帝侯マクシミリアン=ヨーゼフ三世の前で演奏。
         クラビアに加え、レオポルトが教えたこともない、ヴァイオリンを
         見事に弾きこなし、大喝采を浴びる。      
二回目の演奏旅行
1762年10月 神聖ローマ帝国の首都ウィーンにて、シェーンブルン宮殿に招かれる。
         女帝マリア=テレージア、夫フランツ一世、公女マリー=アントワネット、
         宮廷作曲家バーゲンザイルの前で即興の曲を演奏し、大礼服と大金を
         与えられる。
        一週間後、再びシェーンブルン宮殿に招かれる。
その後、ボヘミア(チェコスロバキア)の年をめぐり、翌年1月ザルツブルグに戻る
三回目の演奏旅行
1763年6月 ミュンヘン、アウグスブルグ、ウルム、ハイデンベルグ、マンハイム、
        マンイツ、アーヘン、ベルギー、ブリュッセルをまわり、はじめてピアノに触
        れ、また音楽家と知り合う。
1763年11月 パリに到着。熱狂的に受け入れられる。
     12月 ベルサイユ宮殿にて、王ルイ十五世、王妃、王子ルイ、王女アデライード
         の前で演奏。
1764年 1月  王宮の晩餐会に出席を許される。
1764年4月 ロンドンに渡り、王宮にて国王ジョージ三世、王妃シャルロッテ=ソフィの
        前で演奏。
     6月 ロンドンの新聞に父親が公開演奏会の広告を出す。数百人が集まる。

その後、大バッハの8人目の子、ヨハン=クリスチャン=バッハに師事。父が長い間病
気になり、その間、作曲活動に打ち込む。公開演奏会の広告は、日が経つにつれ、効
力がなくなってくる。
1765年7月 フランス北部に渡るが、父とモーツァルトが病に倒れ一ヶ月寝込む。
1765年9月 オランダ、ハーグ。ナンネルが腸チフスにかかり、一時危篤状態となるが
        復活。
1766年1月 アムステルダムまで遠出。姉弟で成功。オランダの公女カロリーネに作曲
1766年3月末 再びパリに。パリで名の知れた大家と即興演奏で競い勝つ。かつての
          熱狂振りはない.
1766年7月 パリを去り、スイスを経てドイツへ。各地で演奏をしながら、11/29ザルツ
        ブルグに戻る。
4回目の演奏旅行
1767年11月 ウィーンで行われる大公女マリア=ヨゼファとナポリ王フェルディナントの
         婚礼に出席しようとねらうが、大公女が天然痘にかかり、死ぬ。一家は
         、天然痘を恐れボヘミアにのがれるが、ナンネルとモーツァルトが発病。
1768年1月  ウィーンに戻る。政権。フランツ一世→ヨーゼフ二世へ。マリア=テレー
         ジアに会い、オペラの作曲を依頼されるが、関係者に上演を邪魔され中
         止となる。
1769年1月  ザルツブルグに戻る。
5回目の演奏旅行
1769年12月 北イタリアのトレントに到着。ロベレート→ベローナ。
1770年1月  ミラノへ。公演をしながら、オペラ劇場をまわる。
1770年3月 ボローニャ公演。フィレンツェを経て、ローマ。バチカンへ。
     6月 ナポリなどをまわり、再びローマへ。
     7月 教皇クレメンス十四世から、黄金拍車勲章授与。
         ボローニャにて、音楽家最高の団体「アカデミア=フィラルモニカ」に、 
        20歳以上という規則を超え、入会。
     10月 ミラノに戻る。ミラノ大公の場内劇場にて、ポントの王ミトリダーテ上演。         22回連続上映。
1771年3月末 ザルツブルグに帰宅。
6回目の演奏旅行
1771年8月 ミラノに到着。マリア=テレージアから、皇太子フェルディナント大公とモデ
        ーナのマリア=ベアトリーチェ王女の婚礼のための劇音楽の作曲に取り 
        掛かる。10月初演。連続4回上演。宮廷楽団からの連絡なく、12月帰郷。
7回目の演奏旅行
1772年10月 三度目のイタリア。ミラノ市から頼まれた謝肉祭用の音楽劇の作曲。
     11月 出来上がった「ルーチョ=シッラ」は大公と公妃の前で初演。26回上演。
1773年 3月  宮廷楽団から雇いの連絡はなく、失意のままミラノを去る







「無用な人間をやとって、それが乞食のように世間を渡り歩いたら、
それこそ公務の品位をおとすばかりでなく、家臣たちにも悪い影響をおよぼすであろう」

「そんなふうに、あちこち物乞いのように歩き回るのは、私は我慢がならん」

「コロレド大司教」

1771年12月、ザルツブルグの大司教だったジークムントが亡くなりました。
モーツァルト親子がイタリアからの旅行から帰った、実に翌日のことでした。
演劇にも音楽にも理解を示した大司教に代わって、
ヒエロニュムス=コロレド伯爵が就任したのは、翌年の4月でした。

彼は、自らの言葉で、
「私は、芸術というものは分からない。宮廷楽団も解散させても良いのだが、
体面のために残すことにする。モーツァルトは、天才だと言ううわさを聞いている。
お前をコンサートマスターとして雇い、給料を出す」と言いました。

彼は、音楽家をまるで自分のアクセサリーのように使い、
傲慢で、見栄っ張りで、ことごとく意地悪でした。

この後4年半のあいだに、オペラ劇場ひとつないこの街から、
モーツァルトが外に出たのはわずか2回でした。
一度目は、コロレド司教がウィーンに行った時のお供として。
二度目は、ミュンヘンの選帝侯マクシミリアン三世の好意から、
謝肉祭のためのオペラの作曲を頼まれました。

窮屈な宮遣いが嫌になったモーツァルト親子は、
パリへの演奏旅行のための休暇願いを出しますが、
認められず、揃って辞職願いを出したところ、モーツァルトのみが認められました。




アロイジアへの想い

1777年9月23日早朝、モーツァルトは母と共に再び旅に出ました。
新たな就職先を求める旅です。
はじめは、一日半かけて着いたミュンヘンで
選帝侯マクシミリアン三世に会いました。
次に向かったのは、父の生まれ故郷アウグスブルグです。
モーツァルト親子は、そこに二週間滞在したあと、次の目的地へ向かいます。

二人は、さらなる北西の町マンハイムにやって来ました。
ここには、選帝侯カール=テオドールという人がいて、
芸術や音楽にとても理解がありました。
ヴァイオリニストのヨハン=シュターミッツと言う人が、
「マンハイム学派」と呼ばれる質の高い音楽を作っています。

また、この町はオペラが盛んだということもあり、
モーツァルトはここの宮廷楽団に入れることを、楽しみにしていました。
宮廷楽団の首席奏者カンナビヒの長女にピアノを教え、
また彼女にハ長調のピアノソナタを贈ったことから、

選帝侯夫妻の前で、演奏することが出来ました。

ところが、あてにしていた宮廷への就職の話はなかなか来ませんでした。
コロレド大司教に辞職願いを出したモーツァルトの父の気持ちを考えると、
早く就職先を決めて落ち着きたいところでした。

ところが、モーツァルトはこの町をなかなか離れようとしませんでした。
この頃モーツァルトは、ザルツブルグにいる自分の父親に何度かこんな手紙を書いています。
「僕はウェーバーさんという人と親しくしていますが、
私の仕事を何かと手伝ってくれています。
オラニーエン公女の館では、少なくとも、8ルイドールいただけます。
ウェーバーさんの娘さんのアロイジアは、非常に歌が上手く、
どんな劇場でもプリマドンナがつとまります。
僕は、彼女を一流の歌手にして、売り出したい、
…一緒にイタリアに行きたい」

父親からの返事は、厳しいものでした。
「私は、すぐに他人を信じ、おせじや体裁のいい言葉に惑わされる
お人よしのお前を心配している。
お前は他人の利益のために、自分の名声や利益はおろか、
両親の名声や利益まで犠牲にするつもりなのか。
いますぐにパリに発ちなさい。
お前の天分を尊敬と礼儀を持って扱ってくれるのは、パリしかない。」

1778年3月14日、モーツァルトはマンハイムを発ち、
アロイジアの想いを振り切りながら、パリへ向かいました。



「グルック派」と「ピッチーニ派」

(フランス革命の兆し)

この頃パリの音楽界は、ある話題でもちきりでした。
音楽についての派閥闘争とでもいうべきたたかいが起きていたのです。
オペラを例に挙げますと、
一方は、グルック派と呼ばれる人間性を大切にし、文学的にもすぐれたもので、
もう一方は、歌手が派手な身振りで派手な美声を競うピッチーニ派で、
今までのイタリアオペラを支持したものでした。

モーツァルトは、以前パリに来た時に父と仲の良かった、外交官グリム男爵に、
父からの紹介状を持って会いに行きましたが、
モーツァルトがピッチーニ派ではないことを知ると急によそよそしくなりました。
彼は、どちらでもありませんでした。
父から、「つまらない争いに関わるな」といわれていたからです。

フランス革命(1789年7月14日〜1799年1月9日)

時代は、
揺れ動いておりました。
当時、フランスでは啓蒙思想家であるルソーや
百科全書派であるヴォルテールにより、
社会契約説が多くの知識人に影響を与えている頃だったのです。
ルソーは、その代表作『社会契約論』を1762年に出版しています。

彼らの新しい考え方に国民は共感し、
当時の社会体制(アンシャン・レジーム)に対する反発が鬱積していきました。
ブルボン朝政府、特に国王ルイ16世はこれを緩和するために
漸進的な改革を目指しましたが、
特権階級と国民との乖離を埋めることはできませんでした。

そして1789年7月14日のバスティーユ襲撃を機に、
フランス革命が始まります。
(その後ナポレオン・ボナパルトによる1799年11月9日の
「ブリュメールのクーデター」まで続いたとされている)



ひとりぼちのパリ

15年前、モーツァルトがパリを訪れたのは、わずか7歳の時でした。
この頃は、天才音楽少年として宮廷の貴族達のもてはやされたモーツァルトですが、
いまは違いました。
あの天才モーツァルトの名前を覚えているものは、誰もおりませんでした。
モーツァルトは、今までとは違ったまったく無名の音楽家として、
新たな道を切り開いていかなければならなかったのです。
何事もなくひと月が過ぎ、
4月になって、よそよそしかったグリム男爵からようやく作曲の依頼を受けて、
わずかな収入を得ました。
しかし、作曲したほとんどの作品も人々からは相手にされず、
お金にもならない生活が続いていきました。
モーツァルトは孤独でした。

母の死

この年の6月11日、母のアンナ=マリアが病に倒れました。
病名はチフスでした。
「ボルフガング、あなたは私達の宝だったわ。
こんな息子を私達夫婦は授かって、私達は本当に幸せだったわ。
ありがとう」
7月3日夜10時。パリのグルーシュネ通りの粗末な宿の一室で、
57歳の生涯を終えました。

実は、モーツァルトが3年ぶりに作曲した交響曲ニ長調第31番パリが、
6月18日にチュルイリー宮殿で演奏され、大成功をおさめるのですが、
マリアは病の床にあり、その成功を見ることはありませんでした。

マリアは、6月12日、夫のレオポルトとナンネルにあててこんな手紙を書いていました。
「さようなら。お二人ともお元気で。あなたがたに何千回ものキスを贈ります。
私はあなたの誠実な妻です。腕と目が痛むので、これで終わりにします」

このことを知らないモーツァルトは、母の亡くなった夜、
故郷へ二通の手紙を書いています。
一通は、父親の元へ。
そしてもう一通は、
モーツァルト家と親しいブリンガー神父へあてて書いたものでした。

「神父様。私の愛するたった一人の母親が亡くなりました。
父には、母の様態が良くないということだけを書きましたが、
どうか神父様から、そのことを和らげてお伝えくださいますよう、
お願いを申し上げます」

父親には、
「母親の様態が良くありませんが、
その経過は神様のお望みしだいです」
と書きました。


モーツァルトは、失意の底におりました。
一時は成功したとはいえ、
やはりパリの中には自分の身を置く場所を得ることは出来ませんでした。
あのグリム男爵とも、パリの音楽家達との付き合い方、生き方にことごとく対立し、
9月26日無理やりパリを離れる馬車に乗せられてしまいました。

その少し前に届いた父親からの手紙には、こう書かれていました。
「すぐにザルツブルグに戻りなさい。かねてより頼んであったお前の復職を、
コロレド大司教が認めてくれた」

こうしてモーツァルトは失意のままパリを去りました。
しかしその孤独の中において、
彼がこの頃作曲した作品は実に実り豊かな名曲を生み出しております。



アロイジアに会いたい


最愛の母を亡くしてから、心は自然とアロイジアへと向かいました。
アロイジアは風の便りで歌手として成功していました。
選帝侯の宮殿がミュンヘンに移ることになっていましたが、
アロイジアはそこのオペラ劇場に雇われるだろうということでした。

モーツァルトは、アロイジアに何度も手紙を書きました。
しかし、返事は返って来ません。
あちらは人気者のプリマドンナ。
こちらは、定職に着く事も出来ず、
これからどうしたら良いか分からない貧乏作曲家。
モーツァルトの心は痛みました。
それでも、その恋の想いには変えられません。
パリを出たモーツァルトは、彼女のために書かれた曲を手に、
アロイジアのいるミュンヘンにまっすぐに向かいました。
彼は彼女に結婚を申し込むつもりだったのです。

ところが、そこにいたのはすっかり心変わりしたアロイジアの姿でした。
モーツァルトは、母の喪に服すために、
緋色の楽長服の金ボタンを黒い紗で覆っていました。
「あなたの姿はまるで従僕のようだわ」と嘲笑いました。
モーツァルトは、ピアノにとんで行き、
大声で、
「俺を好いてくれないあまっちょめ、俺の尻でもなめていろ」
と歌いました。
彼にとって、初めての失恋でした。
アロイジアは、その後ウィーンのドイツ劇場にプリマドンナとして雇われ、
そこで知り合った俳優兼画家のヨーゼフ・ランゲと知り合い、結婚しました。

大司教の元を去る

1779年1月モーツァルトはザルツブルグに帰って来ました。
モーツァルトの父は、モーツァルトのために、
懸命に頭を下げて息子の複職を願い、それが叶いましたが、
ふたたびあの嫌なコロレド大司教の元で、
働かなくてはならなくなったモーツァルトの心は憂鬱でした。

ある時、大司教からウィーンに来るよう命じられました。
大司教は、旅先で自分の宮廷楽団に演奏をさせて、
大いに自慢をしたかったのです。
その頃、モーツァルトは、
ミュンヘンの選帝侯から頼まれたオペラを上演している時でした。
宮廷楽団にモーツアルトがいないことを知ったコロレドは、
自分の見栄のためにモーツァルトを呼びつけたのです。

ウィーンは、モーツァルトにとって輝くしく、また、
苦い経験のあった土地でもありましたが、
モーツァルトのことを覚えて気さくに声をかけてくれた人たちもおりました。
しかし、コロレドは、
モーツァルトの名誉をことごとく自分の手柄のように振る舞いました。

モーツァルトが招かれた晩餐会や、演奏会を彼はことごとく邪魔をしました。
そのくせ彼はザルツブルグにいた時の二倍働かせ、
お金はろくに与えず、使用人たちと同じ食事を与えました。


度重なるコロレドのひどい仕打ちに耐えかねていたモーツァルトに、
5月9日、すぐにザルツブルグに帰るよう命令が下りました。
何かと理由をつけて出発を遅らせるモーツァルトに向かい、
彼は、
「今すぐにザルツブルグに出発しなければ、
親元に手紙を書いて給料を差し止める」
と言いました。
二人は激しく争った挙句、とうとうモーツァルトは、
この男の下を去ったのです。

Hieronymus von Colloredo
1732年5月31日
九星:「七赤金星」 干支:「壬子」

食べ物と演劇に興味がある。
見栄っ張り。リーダーとしての才に欠けるところもあるが、
人との交流について、慈愛と才能がある。
コロレド大司教は、本当に悪者だったか?



僕はウィーンに残る!

ウィーンの留まったモーツァルトは、父や周囲の妨害によって、
辞表を大司教に送ることが出来ませんでした。
ここで、モーツァルトと父レオポルトの考え方の
相違が決定的なものとなってしまいます。
父は宮廷に雇われず、自由に音楽家として生活することの難しさを説きますが、
モーツァルトは、僕が大司教の下を去ったのは、
僕と父上の名誉を守るためだと言い、
「名誉」と「お金」を得るために僕はこのウィーンに残るのだと言いました。


きらきら星変奏曲を書いた経緯

きらきら星変奏曲が作曲された年代は、
実は二つ説があります。

ひとつは、今までそうだとされていた1778年。
ひとつは、最近の研究で言われ始めた1781年です。

これについて、ひとつひとつ占ってみました。

1778年のモーツァルトの運勢は、黒い影が彼を包んでいます。
悲しみ・孤独・苦悩・刹那さ…
この年、モーツァルトは上記の年表にも書きましたが、
お母さんを亡くし、またパリの喧騒の中で孤独と戦いながら、
失意のうちにそこを離れています。
ついで、アロイジアに失恋するという、
彼にとっては、二重苦三重苦といった、
大変つらい時期を過ごさなければなりませんでした。

1781年のモーツァルトの運勢は、ずばり「自立」です。
その年、彼は自由を心をから望みますが、
そのために、自分の職を破り人を傷つけたあと、
その結果「自由」を手に入れるのです。
ちょうどコロラド大司教と離別し、ウィーンの地に留まったのがこの年です。

このように、九星気学で彼の運命を見たときに、
それは恐ろしいほどに事実と一致していますが、
これだけでは、いずれの年代に「きらきら星変奏曲」が
作曲されたかの答えは出てきません。

私は、易とタロットにその判断を委ねました。

まず、易では「山沢損」という卦が出ました。
自らを犠牲にしても、人のためになることで愛の証と為すという卦です。

次に、きらきら星変奏曲を書いた経緯について、
タロットカードを使って鑑定してみました。

彼の胸中にあるものは、収入を得て生活の基盤を作ることが、
メインとなっており、懸命に新開地を開くために奔走している姿が見受けられます。
そこには、家族への愛が伴い、
また、直前に大変なショックを受けた彼の中に、
「離別」の二文字が色濃く残っているといった全体像が出て参りました。

また、密かに恋心を抱いているという様子も見て取れます。

しかし、ここまで占いを進めて、私はさらに分からなくなってしまいました。
それは2つの年代を良く観察すればするほど、
モーツァルトのテーマ、心情、置かれた境地が酷似しているのです。
カードからは「大変な中にも喜びの光」を読み取れるため、
ほぼ7割は、私の中で1781年と定まり始めたのですが、
まだこれといった決定打が出てまいりません。

曲についても、モーツァルトは信じられないような速さで
いくつもの曲を作っていきますから、
年代を調べて「当時」と限定することが、
難しいのです。

その後のモーツァルト
1782年7月16日ウィーンのブルク劇場でオペラ
「後宮からの逃走」で大成功をおさめる。
後宮(こうきゅう)とは、王や皇帝などの后妃が住まう場所。
日本では、平安京内裏の七殿五舎が該当する。一般的に、後宮は男子禁制というイメージがあるが、日本では必ずしもそうではない。

コンスタンツェ1782年8月4日に2人は結婚している。モーツァルトとの結婚生活の8年の間に6回妊娠し、その



この曲を聴くと、こんなことが起こります。








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きらきら星変奏曲