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からたちの花
Flower of karatachi

山田 耕筰
(日本)
1886-1965




【小吉転じて大吉】


どんな苦境にあろうとも、冷静に自分自身を強く見つめて、
苦難を乗り越えていく。
現状から逃げるのではなく、
現状の中で、いかに生きていくかという知恵と勇気を得る
という効果があります。






『からたちの花(Flower of karatachi)』は、

日本近代音楽の父と呼ばれた作曲家「山田耕筰」
(1886年(明治19年)6月9日-1965年(昭和40年)12月29日)

が作詞家「北原白秋」1885年(明治20年)1月25日-1942年(昭和17年)11月2日 )

の詩に曲をつけ、1925年(大正14年)当時の雑誌『女性』に発表した童謡です。
 






からたちの花







では、『からたちの花』占ってみたいと思います。

山田耕筰と北原白秋は、多くの歌曲を共作しています。

この曲もまた、二人の深い親交の中で得られた、
山田耕筰の少年時代の語った思い出を、
白秋が温かいまなざしをもって綴ったものです。

一見すると、意味の良くとれないように感じられるこの歌詞にもまた、
子どもの心情に同化したつらさ悲しさと、
実際、その経験を得て成人した山田耕筰に向けられる敬意とが合わさって感じられ、
普遍性をもった、慈愛に満ち溢れた美しい詩と、
一度聴けば決して忘れない、心に染み渡るようなこの曲は、
日本人ならば誰でも知っている、とても有名な童謡のひとつであり、
文部省唱歌にも指定されています。

現在(2010年6月)、このサイトに協力いただいているピアニスト宮川久美さんの、
ジャポニズムをテーマとした演奏会も近いことから、
山田耕筰、さっそく行ってみましょう!!


山田耕筰の生年月日と名前で、
山田耕筰とはいったいどんな人だったのか?を
観てみることにしましょう。




山田耕筰は、1886年6月9日生まれ。
九星:「六白金星」 干支:「丙戌」
山田 耕筰(やまだ こうさく)

東京市本郷(現在の東京都文京区)にて、
相場師であり、のちキリスト教伝道師の父「謙三」と、
敬けんなクリスチャンであった母「久(ひさ)」のもと、
四人兄弟の末っ子
(注)調査中)誕生しました。

父は気性が激しい性格であり、
母はやさしく忍耐強い人でした。
耕筰の父謙三は、
10年間の病気の末、耕筰10歳の時に亡くなったとありますから、
耕筰の幼少時代は、
病床の父を中心にした家計は苦しくとも、
豊かな教えの家庭中に育ったということになります。

耕筰は、家族とともに住いを何度か変えていますが、
2歳から7歳までの五年間、この横須賀に住んでいたこともあり、
時折やってくる軍楽隊が大好きで、その行進について行ってしまい、
途中帰り道がわからなくなり、隊の人に送ってもらったこともあるそうです。

また、その後には東京の築地に住み、
すぐ近くにあった三番館という屋敷から、美しいピアノの音をはじめて聴き、
後に耕筰自身の著書のなかで、
「自分が作曲家になったのは、
あの頃に聴いたピアノのへの想いがきっかけである」
と書かれています。

1892年(6歳)頃 賛美歌をひとりでよく英語で歌っていた。
1895年(9歳) 巣鴨にある自営館に働きに出る。父の死。
1899年(13歳) 病にかかり、入院。その後、母と二人かまくらに住む。
〜その後、静養も兼ね、岡山にある、姉の夫であるエドワード・ガントレットの家で暮らし、
音楽家でもあった彼に音楽や英語の手ほどきを得る〜
1904年(17歳)母の死。
1908年(22歳)、東京音楽学校(後の東京藝術大学)声楽科を卒業。

1910年(歳)から3年間、岩崎小弥太の援助を受けてドイツ・ベルリン音楽学校作曲科に留学。
同時期に岩崎は、東京フィルハーモニー会を設立。
1912年()留学中、日本人初の交響曲となる『かちどきと平和』を作曲。
1914年岩崎より、東京フィルハーモニー会の管弦楽部首席指揮者を任されるが、
翌年、耕筰の恋愛問題が発覚し、岩崎からの資金が絶たれることとなり、解散。
1917年(歳)渡米。カーネギーホールにて、自作の曲を中心に演奏会を開く。
1924年(歳)近衛秀麿と共に、現在のNHK交響楽団の前身となる日本交響楽協会を設立。
1936年(昭和11年)レジオンドヌール勲章受章。
1940年(昭和15年)演奏家協会を発足させ、自ら会長に就任。
1941年(昭和16年)情報局管轄下の「日本音楽文化協会」発足、
副会長に就任。将官待遇となる。
1944年(昭和19年)には日本音楽文化協会会長。
1948年(昭和23年)に脳溢血で倒れる。
1950年(昭和25年)日本指揮者協会会長に就任。
1956年(昭和31年)文化勲章を受章。今までの耕作から「耕筰」と改める。
1965年(昭和40年)12月29日、心筋梗塞で死去。




「九星で観た彼の運勢」

まず、彼の生まれた星は「六白金星」で、「潔白」で「責任感」が強く、
「活動的」というイメージが見て取れます。
また、彼の生まれ年である「戌年」は、やはりおなじように「正直」者であり、
また義理や人情を大切にする方でもあります。

彼の生まれた月の九星は、「四緑木星」という星であり、
人が良く、親切で、はじめのうちはおどおどしているけれども、
慣れるとだんだん本性を表していく、
というところがあります。


「現実に生きる人」

私が彼を占ってはじめに思ったことは、
私が、そしてたぶん皆さんも想像していた、
ロマンティックなイメージとはかけ離れた星を持つ人だったということです。

彼の人生を総合して観て行くと、
どちらかと言えば、現実主義者であり、
今、現実に立ち向かう問題に対して、
どうやって乗り越えていったらいいか、
どうやって現状を打開していったらいいか、
ということを常に考えている方であり、
時には、見るものによれば冷酷とも思えるような、
情を割り切って、先に進んでいくことの出来る人、
というのが、私の山田耕筰に対する見解です。



「やす子」との婚約


耕筰は、学生時代、徳久という親友がいました。
徳久は、体が弱く、また複雑な家庭に育ちました。
そんな彼が、義理の妹であるやす子を耕筰に託しました。
死に行く、病床の徳久の前でふたりは結婚を誓いますが、
留学が決まると、やす子をおいてドイツに行ってしまいます。
その後、耕筰を待てなかったやす子は、母の薦めから
他の医者のもとに嫁ぐことなります。
もちろん、この時の耕筰は相当な落ち込みようだったようです



声楽か?作曲家か?


耕筰が、ベルリンに留学していたときのことです。

作曲部の学生を対象に、声楽家を募集する掲示が出されました。

日本にいる時に、耕筰は専攻がなぜか作曲ではなく、
声楽科でありました。
それはまだ、耕筰の時代に西洋音楽の作曲法を
しっかりと教えられる者がいなかったからです。

だからこそ、ドイツに留学した目的は、
音楽の作曲法をしっかりと学び、
それを日本に持ち帰ることでした。

しかし、作曲だけで食べていくには大変なことも次第に分かってきました。
ある、大使館の人間からは、
「君は音楽なんかやめて、語学を活かし、外交官になったらいい」
と言われたこともあります。

音楽は、耕筰のライフワークでしたから、
それを辞めることはもちろんしませんでしたが、
声楽の募集には、正直迷いました。
授業料免除ということも、耕筰にとっては大きな魅力でした。



「テア」との婚約

〜 COMING SOON 〜





この後も、山田耕筰の人生をUPしていきます。


竹冠の謎
〜 COMING SOON 〜

この後も、山田耕筰の人生をUPしていきます。



この曲を聴くと、こんなことが起こります。








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からたちの花