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G線上のアリア
『管弦樂組曲第3番二長調.BWV1068第2楽章(Air)


ヨハン・ゼバスチャン・バッハ
Johann Sebastian Bach
(ドイツ)
1685-1750

 


【中吉】

中庸の徳を持つ。実に優れた名曲である。

傷ついている人には自信を与え、その人を守り、
人の言いなりにならずに済むという効果があります。
何を言われても、自己を貫き、
自由を手にすることが出来るようになります。

意志が弱い人、優柔不断な人におすすめの曲です。

また、逆に執着のある人には、ほぐして断念させ、熱を冷まし、
己の立場を再認識できるようになるという効果があります。






『G線上のアリア』(英語:Air on the G String)は、

ドイツの作曲家ヨハン・セバスチャン・バッハ(1685年3月21日 - 1750年7月28日)が、
作曲した『管弦楽組曲第3番 ニ長調 BWV1068』の第二曲、

Air(エア/アリア)が原曲となっています。

心の奥にまで響き渡るこの曲は、大変美しく、正義と真実に満ちており、

心が洗われる想いをお感じになることと想います。

この曲が《G線上のアリア》として名づけられ、とりわけ有名になった理由は、

19世紀後半のヴァイオリンの大家「アウグスト・ウィルヘルミ」が、
ヴァイオリン独奏用に編曲したことによります。

G線とは、ヴァイオリンの4本ある弦の中でもっとも低い弦を表しており、

実際、ヴァイオリンのG弦だけを使って弾くことが可能だそうです。

まるで、Air(空)の中にまっすぐに引かれた一本の飛行機雲や、

また、水面に引かれた一筋の航跡を私は思い浮かべます。
 


“G線上のアリア”の読み方について

管弦樂組曲第3番二長調.BWV1068第2曲は、
もともと
Air(エール)と副題がつけられています。
この“Air”はフランス語です。
また、同じ綴り同じ意味を持つ英語では、“Air”「エア」と読みます。
そしてイタリア語では“aria”「アリア」となります。
意味合いとしては、歌謡的、叙情的な器楽曲を表しています。
日本では、“G線上のアリア(ジー線上のアリア)”と呼ばれるのが一般的です。



アウグスト・ウィルヘルミについて

アウグスト・ヴィルヘルミ/オーギュスト・ヴィルヘルミ(August Wilhelmj)
1845年9月21日 - 1908年1月22日)はドイツのヴァイオリニストです。

彼は、1871年J・S・バッハの『管弦楽組曲第3番』第2楽章(Air)を、
ヴァイオリンの独奏用の曲として編曲しました。
ヴァイオリンのG弦(一番低い弦)のみで演奏出来るようにされたことから、
この曲は『G線上のアリア』という愛称で呼ばれ、
多くの人に知られるきっかけとなりました。



G線上のアリア




では、『G線上のアリア』占わせていただきます。
バッハの生年月日と名前を使って、バッハがどんな人だったのか?を
見てみることにしましょう。





バッハは、1685年3月21日生まれ。九星:「九紫火星」 干支:「乙丑」
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(Johann Sebastian Bach)

バッハは、ドイツ中部テューリンゲン地方のアイゼナハに生まれました。
ここからは、かの有名なマルティン・ルターが住んでいた町でした。

バッハ家は、16世紀以来、音楽家を70人以上も輩出した一族でした。

コラム(その1)

一般に「バッハ」といえば彼のことを指しますが、
他のバッハと区別するために
通常J.S.バッハと表記されます。
また古くからバッハ家でもっとも偉大であるということから、
大バッハと呼ばれることもあります。

父、ヨハン・アンブロジウスは、町楽師兼宮廷楽師。
人々から尊敬を集めた有能であり、、ビオラ奏者として特に優れていましたが、
その他の楽器も何でもこなし、歌もうまかったといいます。
彼には良く似た双子の弟がいました。
母、マリーア・エリザベート・レンメルヒルトが音楽家であったかは、
残念ながら、どの文献にも載っていませんので割愛致します。

彼は、両親の間に生まれた8人の子供の末っ子でした。

コラム(その2)

男の兄弟のファーストネームは、
なんと全員ヨハンという名前がつけられていますが、
これはキリストに洗礼を行った預言者ヨハネと、
またキリストの愛弟子のヨハネからとったドイツ名です。
(後に混乱を避けるため、セカンドネームで呼ばれています)

バッハは、1692年(7歳)アイゼナハのラテン語学校に入学します。
ここでは、ラテン語の他に宗教学を中心として学びました。
また、この頃、彼の美しい声がかわれて、
聖歌隊の活動も行っています。
そのため、学校の授業をたびたび休みましたが、
それでも成績はかなり良かったそうです。

1694年-95年(10歳)両親を立て続けに亡くしてしまいます。

1699年(14歳)それまで、教会のオルガン奏者であった兄夫婦のところで、
生活していましたが、この歳から、リューネブルクの聖ミカエル教会付属学校で、
聖歌隊の歌手として自分で給料をもらいながら、勉強を続けます。

この聖ミカエル学校では、
ありとあらゆる作曲家たちの楽譜が納められた図書館がありました。

また、この頃、教会のパイプオルガンの修理がおこなわれました。
その組み立て作業や、調整作業を、バッハは夢中になって見ており、
技術者から色々なことを聞いたといいます。


今まで見てきたどの作曲家と比べても、
彼の音楽に対する情熱や、その早熟さは、逸脱しております。

「音楽の父」と呼ばれた彼の人生を語るには、
一筋縄ではいかないようです。

少年期以降の、バッハの人生については、
今後バッハの作品を取り上げたときにまた、
ご紹介させていただくことに致しましょう。



では、占いに入りましょう。

まず、九星ですが彼は、
「九紫火星」という星を持っています。
芸術家の方は、なんどもこの九紫火星という星が良く出て参ります。
そのとおり、芸術の星であり、信仰の星であり、また学問をあらわします。
明るく、華やかなことを好み、また美そのものをあらわす星でもあります。

彼の生まれた月の九星は、
「四緑木星」であり、
調和と揺らぎ、迷い、人間関係などをあらわす星です。

また、名前で鑑定したところ、かなり複雑な面が出て参ります。

熱しやすく冷めやすいところが、まず第一位にあげられます。
ひとつの作品を作って、夢中になっている間は良いのですが、
完成すると、すぐに飽きてしまい、また考えもコロコロ変わりやすいので、
きっと周囲は振り回されてしまったことでしょう。


それでいて、他人を思いやる心が欠けているかと言えば、
実は思いすぎる傾向があり、信念はあるものの、
周囲に振り回されやすく、プライドが高い割には、
自信を失いやすいところがあります。

このような性格を、変えていくには、
もはや信仰しかありません。

周囲との軋轢よりもなお、
自己のアイデンティティの確立が成されなければ、
自分自身が辛くなってしまうでしょう。


だからこそ、バッハは、
実に1000曲以上もの曲を書きました。

もっとも、これは、バッハの曲に決まってつけられる
BWV(シュミーダー番号と呼ばれる。現在1080番まである)に
表された現存する曲数のことであり、
実際にバッハが作曲した曲は、数知れないと言われています!


また、彼の音楽に対する研究心と、情熱は計り知れません。

バッハは、自己と他者の可能性をどこまでも追い求めていきました。
それはさも、イエス・キリストがもとめてやまなかった、
人と神との調和であったかも知れません。


そうすることが、彼自身を救い、
彼の理解出来ぬ周囲の人間と分かり合える道であったと思います。

私は、常々、このように思っています。
人を多く、救い、導ける人間は、地位や、名誉や、権力を持ったものではなく、
人としての大きさ(ゆとり)、深さ(学問)、実体験(努力)、そして愛(許し)こそが、
本当に多く、人を救える人間であるのだと。




「G線上のアリア」こと、管弦樂組曲第3番二長調.BWV1068第2曲の作曲された年は、
「詳細不明」です。


いくつかの辞典や、サイトの記述も参考にさせていただきましたが、
いずれも書かれていることに信憑性がなく、
これと断定するには、その根拠が明らかでないことから、
一時期、行き詰ってしまいました。

そこで、管弦樂組曲第三番二長調のネーミングと、
G線上のアリアのネーミングと、
また、今回はタロットカードを踏まえて、
この曲の吉凶を占ってみたいと思います。

まず、管弦樂組曲第三番二長調のネーミングは、
吉凶なし。
また、
G線上のアリアについては、
「立場的に挟まれる」凶とみます。

そして、以下はタロット鑑定をおこなった結果です。


タロット鑑定の結果
『バッハがこの曲を作曲した頃、
何らかのトラブルが起こり、自分を理解してくれる協力者を必要としておりました。
というのも、彼にはすぐにかっとなるところがあり、
また、博識ではありましたが非常識なところがありました。
技術的にはどこまでも優れ、高貴で完璧さを表していました。
なんらかの圧力が掛かっていた時代です。
そして、納得のいかない環境に辟易していた頃です。』


バッハ研究に詳しい方は、
ピンと来たのではないかと思いますが、
自分を理解してくれる協力者とは、
1717-1723頃、バッハの雇い主であった、
ケーテン公レーオポールトの名前が、浮き出て参ります。
ケーテンに住んだバッハは、その時代、
宮廷楽長としての職を与えられ、安定した日々を過ごします。


占いではその前と出ていますから、1716年(ワイマール時代:31歳)ということになります。

その当時、バッハの雇い主であったのは、ウィルヘルム・エルンスト公でした。
彼は、ルターの正統派の信者であり、
厳格な統治者でありました。
音楽を愛し、優れた宮廷オーケストラを持っていました。
ここでのバッハは、地位も名声もすばらしいものでありました。

エルンスト・アウグストはウィルヘルム公の甥にあたり、
公領の共同統治者でした。
彼の住む
「赤い城」では、彼の好むイタリア風の音楽の演奏が行われました。
それを好ましくおもわなかったウィルヘルム公は、
赤い城での演奏を禁止命令を出しましたが、
バッハはそれに従おうとはしませんでした。
ちょうどその頃、宮廷楽長が亡くなりました。
そして、代行を務めていたバッハを後任にせず、他のものにその地位を与えてしまいました。


そこでバッハは、次の雇い主となる、ケーテン公レーオポールトに職を求め、
採用が決まりますが、
ウィルヘルム公はバッハの辞意を退けてしまいました。
その代わり、ウィルヘルム公はバッハにドレスデンの旅行を許しています。

ここでは、ルイ十五世のおかかえオルガン奏者であった、
ルイ・マルシャンとの競演会まで企画されています。

結局、バッハに恐れをなしたルイ・マルシャンは現われず、
バッハの不戦勝となりますが、ここで聴衆を魅了する演奏をひとり行い、
大喝采を浴びました。


ケーテンに戻ったバッハは、再度辞表を出しましたが、
なんとそのことで、バッハは一ヶ月間牢獄にまで入れられてしまいます。
結局、バッハに根負けしたウィルヘルム公は渋々、バッハを手放したのです。




どうですか?タロットの語る内容とぴったりではありませんか?

そこで、私は1716年をこの曲の作曲年とし、
あらためて占ってみたいと思います。

この年のバッハは、人間関係で不和なるも、
より歓喜の世界、自由な世界、大いなる世界へと羽ばたく年です。
その手段、方法は決して良いとは言えませんが、
とにかく、
バッハの魂が解放される年回りであります。

これは私の想像ですが、1716年中、
ドレスデンの旅行の最中に、この曲を作曲したのではないでしょうか?


今回、専門の研究者の方との見解が、大きくずれることがあるかも知れませんが、

ここに私が出させていただいた鑑定の結果、
G線上のアリアの開運効果を、以下のように発表させていただきます。


この曲を聴くと、こんなことが起こります。








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G線上のアリア