世の中の矛盾
〜不幸になっても正義をやめない人へ〜


「世の中が悪い」という人が少なくありません。
政治が悪い、会社が悪い、先生が悪い、上司が悪い、
親が悪い、子供が悪い、悪い悪い、悪いものだらけです。

なんだか世の中の風潮がみんなそんな風になってきて、
世の中っていうから、誰かと思えば、
結局、悪い悪いと言っている人たちが、
悪いことを他人まかせにしているから悪いんであって、
キリスト様もね、
「この中で今まで一度も罪を犯したことのないものは、
この女を石で打つがいい」
と言って、女とは売春婦のマグダラのマリアだったんですけれど、
年老いたものから、順番にその場を離れて、
やがて皆その場から立ち去ったっていう。
罪のない人なんていないわけですよ。

お釈迦様もね、家族の不幸に立ち直れなくなっている人から、
「どうしたらこの悲しみから救われるのでしょう」と言われた時にね、
家族に不幸のなかった家から、なんだかをもらって来なさいとね、
一件、一件あたってみるけれど、家族に不幸の出なかった家なんて
一件もありませんでした。それで、あぁ悲しいのは自分だけじゃないんだ、とね。

みんな罪びとであって、みんなが被害者を公平に体験していてね、
ちょっと何かに触発されて、正義感を覚えたからといって、
もう理想を夢描いてしまってね、
果たして自分だったら出来るかとか、そうじゃないとかもうおかまいなしで、
自分が楽して、人を裁こうとします。
誰もがね、みんななにかしら、つらいですよ。

「本当はこんなんじゃない。もっと良い世界がきっと出来るはずだ」
そう、正解。それが分かっているから、なおさらに、ね。

でも、罪人と言えば、私たちが生きていること自体、
それはもう大いなる罪。
空を飛ぶ鳥だって、海を泳ぐ魚だって、
別に食べられたくてそこにいるわけじゃあない。
でも、そんなことおかまいなしに、私たちは他の命を断って、
我が命をつないでいる。
これって、大いなる矛盾だと想いませんか?

戦争が悪いことは、誰もが知っているはず。
それでも、戦争がいっこうに無くならないのは、
やはり生きるためであってね、
たとえば私たちが戦国時代に生きて、
相手の家族や、人生や、年齢や、様々な事情を考えたら、
相手の命を奪うなんてこと出来ませんよ。
でも、そうなった時に、遠慮していたら、私がやられてしまう。
私にも大切な家族がいる。
私が死んでしまったら、家族もみんな殺されてしまう。
そういう止むに止まれないことが起きた時、
やはり私でも、罪を犯すと思うんです。

もちろんそこには、相手を死なさなければならない、心の葛藤とか、
周囲に合わせなければならない苦しみとか、
あえて恨みを買わなければならないことを、耐え忍ぶ気持ちとかね。

どんなに時代が下って葛藤の少ない時がやってきても、
こういったことを凌駕する力が、ひとりひとりの人間の中になければ、
結局それは不満であるということになって、
良い世の中なんかになりませんよね。

耐え忍ぶとは、本来はこういう大義に生きる
この国の先人の美しい生き方のことであって、
いつの頃から、何がどう間違ったのか、
隣りの人と声を合わせて多数決で攻撃する人間のほうが、
正しくなってしまいました。
そんな人たちの顔を見ると、美しくないんですよね。

                                                         世界観
寺千代


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