“愛”と“暴言”
〜想い裏腹なる悲しみ〜


どうして人は、
愛するべき存在に対して、で気持ちを伝えようとしないのだろうか?

人は、皆、愛の存在である。
どんな悪人も、決して一人では生きてはいけない。
愛するものを、求めているし、
愛してくれる人を、求めている。

ずっと不思議に思っていたのが、
学校時代、不良と呼ばれる生徒がいたこと。
嫌ならば、学校に来なければいいのに。
わざわざ学校に来て、怒り、怒られることを繰り返す。

「憎しみも愛である」
これは、最近、僕の心のなかから生まれた言葉だ。

心理学の用語に、
ストロークという言葉がある。
ギターをやっている人は、ピックでじゃらーんと弾く、あの、
ストロークである。
絵を描く人は、鉛筆や筆を握った時、筆を滑らせて色を重ねていく、
あの
ストロークである。

「行ったり来たり」そう訳せば良い。
心理学のストロークは、何を行ったり来たりするのかといえば、
私とあなたのあいだを行き交う言葉である。

言葉は、愛を思えば愛を語り、
憎しみを思えば憎しみを語ると、
誰もがそう思っているに違いない。
しかし、そうではないと
心理学は言う。

愛の言葉に対して、
ありがとうという代わりに、
あなたが傷つくような言葉が、相手から返ってくる。
人の心にはそんな不思議な現象が起こりうる。

もちろん、これは尋常な人ではない。
尋常でない愛情の中で育った人間が、唯一経験したことのある、
彼らにとっては、まさしく
の言葉なのである。

人は、愛の言葉をかけられれば、愛の言葉を学習する。
叱られたら、それがいけないことなのだと、理解してやめようとする。
しかし、愛されるべきはずの親に虐待された時、
その人にとってそれは、愛であると認識されるのだ。
つまり、親に愛されたように、
私もあなたを愛している
それがストロークである。
いけないことをした。それが叱られずに褒められた。
「これは良いことなのだ」
人は、褒められたら、もっと褒められたいという気持ちが生ずる。
(だからこそ、愛の存在なのだ)

人は、人として生まれるが、人として教え学ばなければ、
それは人であって、人になりきれない。

繰り返し、同じことを言われてはじめて、
人は、正しきが何かを知りえるのである。



                                                          人生
寺千代
2009/9/25

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