男の戦い女の平和


男性と女性のいちばんの違いを知ろうとするときに、
人はその
性器(シンボル)の違いをもって、区別を主と致します。
シンボルというものは、そのもののもつ
本質を表し、
そのものの役目を表しています。

すなわち、
男性性器に表されるものは、
外側に向かい、攻撃的で、面積は狭く、
目的を定めたら一路邁進していく性であることを表し、

また、
女性性器に表されるものは、
内側に向かい、防衛的で、面積が広く、
愛と正義をもって受け入れ、大切に育み、成長させる性であることを表しています。


男性は、
「体」を使い荒々しい現実の世界を渡っていきます。
女性は、
「心」を使い遙かなる夢を理想とし、祈りを持って潤いを促します。

男性は、
戦いを持って愛するものを守り、
女性は、
平和を願って、生きとし生けるものを守ります。


共に、
神の子である男性と女性が、切に願うことは、幸福・恒久・発展です。


みな、
それぞれのやり方で、様々なことを考えながら、
この三つを同じように願っています。


ただし、
役割が違うのです。


女性は、男性の
力ずくのやり方が気に入らず、
荒々しい物言いに心を痛めます。

男性は、女性のすべて自分のやり方で
自分を振り回そうとすることに、
孤独を覚え、どうしてもっと広い世界に立って物を見ようとしないのかと思っています。

どちらのやり方だけでも、ダメですし、
どちらが正しくてどちらが間違っているということもありません。
お互いに分からない者同士です。
分からないから、そういうものだと納得するしかないんです。
自分も異性から学ぶ必要があります。


「二代目はクリスチャン」という映画があります(※ネタバレ注意願います)。

志保美悦子さんが、とてもきれいな修道女を演じています。
汚れを知らない、正真正銘の
乙女の姿がここにあります。
きれいですから、男性が放っておきません。

しかし、なんと旦那さんになった方は、組を統率するヤクザの親分でした。
彼がヤクザであるという形でなく、彼の
人間的な優しさにひかれたのです。

ここでおかしなことが起こります。

修道女は、ヤクザを世のため人のためになるような人間に更正しようと、努めます。
神の愛を持ってして、出来ないことは何もありません。
ヤクザは、親分を筆頭に全員
洗礼を受けます。
文字の読めない者も、一生懸命に聖書を学び始めます。

そんな幸せはほんのつかの間のことでございました。
親分は、修道女との結婚式の場で、他の組のヤクザに殺されてしまいます。
親分は、最後までキリストの教えを守り、
決して抵抗しないまま、無残に殺されていったのです。

修道女は、ひどく心を痛めました。

話は、あらたなる展開をみせます。
親分の亡くなった今、彼女は
組の二代目として襲名することになるんです。

その後、他組のヤクザの卑劣な襲撃が重なります。
仲間がひとり、また一人と死んでいきます。

ヤクザの二代目か、はたまた修道女か?
彼女の立場が、この時問われます。
やがて彼女は修道女としてではなく、
一人の人間として、その組へ襲撃に行きます。

途中、彼女が本当に愛した男性と道で出会いますが、
彼は他組の用心棒。
わざと彼女に切られて、死んでいくのです。
彼は、
男性美学の最も美しい象徴です。

すべてが終わり、朝もやの中を歩くシーンでは、
男の立場と、女の立場が、一緒くたになった彼女の姿が、
人の持つ業や弱さといったものを感じさせると同時に、
劇中もっとも
神々しい姿となって、スクリーンに映し出されるのです。

良く出来た映画です。
一度、ご覧になってみてください。



                                                          男と女
寺千代
2009/9/10


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