誰もが、夢を持っている。
こうありたいという、自分の正義や理想を持っている。
その夢や理想が、できれば大切なあの人やまた周囲のさまざまな人たちと
おなじでありたいと、人はいつも願っている。
しかしそうであることは、これ稀であり、人は小宇宙と呼ばれるがごとく、
みなそれぞれの生き方、考え方、大切なものの順番、気性等全部が違うから、
だから人はみな、人と人の共通項を見出そうとし、乗り遅れないようにとし、知ろうとし、
相手を憎み、自分を責めてみる・・・。
親と子。恋人たち。友情。新しい仲間たち。先生と生徒。みんなそうである。
【私】がこうありたい、もしくは、誰かにこうして欲しいと想うのとおなじように、
その【誰か】も私に、こうして欲しい、このように想って欲しいという欲求が存在している。
☆
こんなとき、もしあなたならば、「私」と「誰か」どちらを優先させるだろうか?
「私」を優先させれば、「私」は満足がいくけれど、「誰か」をきっと怒らしてしまうだろう。
「誰か」を優先させれば「誰か」の笑顔は見れるけれど、「私」の人生は「私」の納得のいかない
ものになる可能性が高い。これが妥協である。
この妥協は、良いものであろうか?悪いものであろうか?
☆
私が、占いの館にいたとき、ひとりのこんな女性のお客様が、
隣の先生のブースでわめいていらしたのを、聞いていた。
「結婚は、人生の墓場!結婚は、妥協のかたまり!」
(ふ〜ん。そうなのかなぁ・・)とは想っていたが、それから色々な方と会う機会があって
(うん、そうかも知れない)と思うようになった。
「妥協」を辞書でひくと、ほとんど「協調」という言葉と同義語であることに気がつく。
結局「妥協」出来ない人は、協調性に欠ける人なのだという結論に達したわけである。
ほとんどのことは、ある程度の妥協を強いられる。
妥協するとは、我慢するということである。
100%ではなくっても、ほんの何%でも良い。それが、人間関係ということである。
そして、その我慢が私たちを鍛え、器を大きくしていく。
ところが、絶対にひけないことがらもある。
妥協してはいけないことがある。
あきらめてはいけないこともある。
命にかかわること。自分の人生のなかで重大なことならば、いかに人に嫌われようが
絶対に妥協などしてはいけない。
(その時、ひとは戦うのであろうか?別れを切り出すのだろうか?)
妥協ということは、それを飲んだという責任がある。
誰も、飲んだことについてのその後の責任は、とってくれはしない。
すべて自分の努力で、その妥協のぶん努力しなければならないのだ。
いまの人が、妥協を嫌うことはこういった仕組みがあるからではないだろうか?
そういえば、我慢の出来ない人間が増えた。
個人のこういった駆け引きが、妥協することは人生の負け組みといったような、昨今、
人々は決まりごとを作り、この個人の感情と、社会の均衛をなんとか取り持とうと考えた。
しかしこのやり方はかえって社会の信用をなくし、法の隙をつくり、悪が蔓延する方策であると、
昔の書物はそう教えているのである。
ならばどうするか?
日本には、昔から「満場一致」という言葉がある。
今の多数決とは違い。なんとなく、そんな流れになって、反対するものも途中まではいるが、
決まったあとにまでぐじゅぐじゅ言うようであれば、その人は本当に嫌われてしまうのである。
見事な平和解決である。
しかしこれを本当に成功させるには、徳のあるリーダーが必要である。
徳のあるリーダーとは、「力」もさることながら、いま、ここに本当に必要なものは何かを
決断できる人物のことである。
リーダー不在が説かれて久しいが、私たちはもはや、そんなリーダーの出現を
待ちぼうけていてはいけない。
少しでも実力のある人間は、覚悟をもってリーダーとなっていかなければならないのである。
そして、もっとたいせつなことは、ひとりひとりが、その自覚を持ち、
「いま、本当に何が必要なのか?」をたえず考察するべきである。
子として、親として、男として、女として、実にそれぞれの立場として、
「いま、為さねばならないこと」を真剣に考えてみることが必要である。
☆
「大義に生きる」ことを、最高の徳とした武士たちの記憶を、遡って見て触れてみることで、
実に清清しいものを感じるのは、
そこに「いまを生きる」という精神が脈々と息づいているからだ。
いま一度、【こうありたいと】いう願いが、
腹にあるのか、頭上にあるのかを、確認していただきたい。
それから、嫌われることを覚悟で、我(われ)を貫くもよし、
後に降りかかるであろう災難を甘んじて受けとめて、仕えるのもよし。