習い事


21世紀は、西洋占星術において「精神の時代」と呼ばれています。

華やかな文化が開け、
これからは、創造と芸術と、様々なものが統合された美とが、
人々の考え方、捕らえ方の主流となってまいります。

人々が、そういったものをより濃く求めるようになれば、
芸術家の絶対数も、もちろん増加できるでしょうし、
求められるわけですから、
大いに自信を持って、個々の表したいものを素直に成していけばよいわけです。

さて、どんな芸術に触れるにおいても、
人は「習う」ということを致します。

習うとは、そして学ぶとは、
マネすることとも言われています。
子供が親の真似をすることは、
親を尊敬し、自分もこうなりたいと思うからまねをするんです。
みなさんも、お父さんの
大きな靴をはいた思い出とか、
女性の方ならば、お母さんがいない時にそっと、
鏡の前でお化粧をしてみた経験は、
どなたにもあるのではないでしょうか?


習い事ということで、
習うという字の入っている
お習字を例にとってみましょう。
お習字は、なぜ現代ではほとんど使わなくなった墨と筆で字を書くのでしょうか?
普段は、どうしても使うことがない、実に不便ばこれらの道具を使って、
ゆっくりと、大きく書くことによって、あらためて、
ふだん、私たちがあたりまえに使っている
文字というものを、
再認識して、丁寧に書こうとするからなのではないでしょうか?
ある、お習字の先生は、こんなことを言ってらっしゃいました。

「お習字とは、筆を使って字がうまくなるためのものではないの。
お稽古を重ねて、筆で文字がうまく書けるようになった時、
ふだん、ペンで書く文字がきれいに書けるようになったことが大切なの」

そうなんですよね。
子供がお父さんの靴を履くことは、
大きな靴をいかにうまく履けるようになるか挑戦しているわけじゃあない。
女の子がお母さんの口紅を、お母さんに隠れてこっそり塗ってみることは、
お母さんよりうまく化粧が出来るようになって、
お父さんを私ひとりものにしたいわけじゃあない(笑)
靴を通じ、お化粧を通じて、少しでもすてきな大人になりたいからなんですよね。
子供は素直ですから、やること考えることは、ほぼ正解です。
形から入るということも、私は重要だと思っております。



物まねということで、
私が以前やっていた
お芝居の世界も、やはり習い事だと思います。
ふだんの自分ではない、
他の人間を演じることで、
他人の苦しみや悲しみや、喜びや価値観を、
理解しようとするものが、そもそもの演技のはじまりなのではないかと、
私は思います。
見ているお客さんもなぜ、お芝居を見るのかといえば、
穢れきった、力のない、自信のない、嫌で仕方のない自分というものを、
暗闇の力で消し去ってしまい、
光のなかでヒーローやヒロインを演じる、
役者さんと自分の魂が一体となることによって、
間接的な出会いと体験をそこに果たすからなんですね。

ところが、私がどうにも芝居というものがイヤになったのは、
芝居を作る側の人間が、
習い事ではなく、芝居が目的となり、
芝居が人生となり、芝居がすべてとなった時に、
それに悦にいっている自分自身しか見れないというところに、
憤りを感じてしまいました。

役者とは、あくまで媒体でしかないわけです。
媒体であることを、自覚し、納得し、それを楽しむことで、
バランスが取れていくものなのです。
そして、先ほども申しあげたように、
芝居で習った感性や、礼節や、器用さなどを実生活に生かしていかなければ、
いったいなんのための舞台でありましょうか?
実生活に根ざさない虚構の世界は、
どんなに殊勝なポージングを舞台の上で繰り広げてみたところで、
それは、
嘘でしかありえないと私は思いました。
これは、アマチュアに限らず、プロの方にも言えることです。

世界の有名な俳優たちは、
その私生活においても、私たちの夢を決して壊しません。

スーパーマンを演じたクリストファー・リーブは、
その後落馬による事故で、車椅子の生活を余儀なくされ、
たぶん想像を絶する苦しみと戦ったことと思いますが、
わたしたちの前では決して泣き言は言わず、
多くの講演を行って、
「人生は、生きているだけですばらしい」
ことを、その生涯のすべてを使って教えてくれました。

寅さんこと、渥美清さんは、
その人気に比べて、実生活はほとんど知られていませんでしたが、
親友の関敬六さんの話によると、
実にまじめで義理堅く、家庭や友人を大切にしました。
また仕事の上においては、
自分の出ている作品よりもなお、
日本の映画界のことについていつも真剣に考えていたといいます。

また、先日20年来の大ファンであります、
漫画家の
松本零士先生は、
先日の講演のなかで、あの頃と何も変わらないそのままの姿で登場し、
実に大きな感動を覚えました。
私が子供の頃に見ていた、
キャプテンハーロックや、宇宙戦艦ヤマトや、
銀河鉄道999などは、すべて、
松本先生の実体験から、書かれた、
画であり、セリフであり、登場人物であり、ストーリーであったことが、
いまはこうして大人になった今でも、
あの時と同じ感動をそのままふたたび感じることの出来た故であると思います。


さて、私の鑑定を受けたお客様のなかには、
占いとはこんなに当たるものなのか!と興味を持って、
さっそく占いの本を買って、
さっそく、私の星を聞いて
自分自身との相性を観てみる方もいらっしゃいます(笑)

占いというものが、どこに位置するのかといえば、
私はやはり、この、習いの世界にあると思うんですね。
私自身は、皆様のお手本ではありませんから、
(お手本となれるように、頑張り続けることはします)
いち、翻訳者でありますから、
なにをお手本とするかは、それは、
あなた自身を写す
手相という鏡なんですね。


また、命名された
であり、
生れ落ちた
であり、
それらを見て本来は、どのように生きていくことが天の願いにかなっているか、
ということを見て、たえず反省して、見直して、
そして実生活に活かさなければなりません。
当たるから、おもしろいから、
だけでは、あなたの
過去を、未来をおもちゃにしているのと同じことです。
これはいけません(本を買った方、よろしいですか?)。

最後に、もうひとつ申し上げれば、
習いは、運を開くチャンスなのです。

わたしにも、あなたにも、限界というものがあります。
もしかしたら、占いはその
限界を知るという恐ろしい領域であるかも知れません。
運を開くためには、限界を超えていくことが必要です。
あなたの持つ器を、大きく成長させていくことが必要です。

そのためには、人との出会いがあります。
人はなぜ人を求めるかといえば、それがチャンスだからです。
習いは、人との出会い、それのスタートです。
決して、このチャンスを無駄にせぬよう。

各界において
プロになることを、目指している方は、
このことを踏まえて、ご自分の将来をお考えいただけたら幸いです。
もちろん、ご本人が自信をもって楽しむことがいちばんですが、
プロとは、多くの人々に影響を与えるのですから、
(アマチュアは、・・好き嫌い、そして
「習い」の世界ですね)
まずはご自身をきちんと律して、
お手本となるような生き方をしなければなりません。

人々の「きて」こそ、
先生と呼ばれるゆえんなのです。


寺千代


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