“誇り”とは、心の中にいるあなただけの神様である


人には、どうしても譲れない
自分だけのこだわりがある。
何度言われても、何年経っても、変わらない
自分だけの正しさがある。

「君の言うことを、十人中三人の人が違うと言っても、それはそうだとは限らない。
でも、十人中、九人の人が違うと言ったら、やっぱりそれは違うと思うんだよ」

僕が十代の頃、十も年上の人からこんなことを言われたことがある。
そのときは、「ふうん、そんなものかなぁ」と思っていた。


あれから、約二十年が過ぎようとしている。。


今、僕ははっきりと言う事ができる。

「否、
十人中九人が違うと言ったところで、それは必ずしも違うとは言えない。
むしろ、それが間違っている可能性は大いにある

と言うことである。


私たちは、日ごろから「反省」を求められている。

うまくいかない時、【自分のやり方は何か違うのだ】と言って、
無理やり
理屈をつけて、最大公約数のつまらぬ型にはめている人がどれだけ多いことか・・。

でも、もしも、人が違うと言ったものが、本当はそのとおり、正しいものだったとしたら、
その人はなんと責任を取ってくれるのだろうか。
先の九人は、みんなで集まって、
「私」を傷つけたことに対して、
みんなで示し合わせてなんらかの保障を返してはくれるのだろうか?


いま、多角的な時代である。
モラルや、歴史や、お役所(笑)が言っていることを素直に聞くことで、
どれだけそういった
環境は、「私」を幸せにしてくれるのだろうか?
人は生きるために嘘を語り、
聞かなかった人間は、危うく難を逃れる。
おかしな時代である。

出来る限り正気を保って、
目の前の脅しに屈せず、自分自身の判断で生きていくことが懸命である。

鑑定の際、僕は、お客さんの心の中の神様に出会う。
僕が、お客さんの悪いところを決して並べ立てることがないのは、
それは本来のその人でないからである。
道ではないからである。

人は、自分だけの神様に出会った時に、はじめて
自分の本当の価値、存在について考え始める。

まるで、どこまでも高みに昇っていって、
自分というちっぽけな存在を自分の目で確かめて見るように。
まるで、自分とそっくりな子供に出会って、いつだったか、自分が親に叩いた憎まれ口と
おんなじセリフを、その子供から聞く時のように。

すべては、神様と出会うためのきっかけにすぎない。

愛も憎しみも、孤独も切なさも、みんな神様と出会うための、方便であり、過程に過ぎない。

あなたの一番たいせつなもの。
誇りを、決して捨ててはいけない。

誇りとは、人格である。
誇りとは、宝である。

あなたがあなたであることの、唯一の証明である。

誇りが、あなたを他人がいぶかる原因となっているのであれば、
それは、誇りが原因なのではなく、誇りの表現方法が原因なのである。

誇りが捨てられないからこそ、人は愛に悩み、性格に悩み、孤独にうち震えるのである。

宝を持つものは、概して決まりがある。
それは、「大切に扱う」ということである。

自信があるのに、自信がもてないものは、宝を大切にしきれていないのだ。

おかしな話だが、「誇り」がきちんと誇りを持つことが出来たのなら、
人のすべての悩みは消え去っていく。
決して、人に取り繕うために自身を安売りすることはない。
決して、自己を誇示するために、人を無理に脅かそうとすることはない。
宝をこそ、認識すれば、
黙っていても人は集まり、黙っていても、私は孤独を感じて苦しむことはもう、ない。




                                                          自信が持てない

寺千代
2007/6/12

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