二つのOK!
〜褒め方と叱り方〜

ひとがひとを裁くことは、ひととして最も罪深い行いなのかも知れない。

「良い」という言葉ひとつ、
「否」という言葉ひとつ、
それが果たして正解であるのかどうなのか、
これこそは「神のみぞ知る」である。

私たちひとりひとりは、
ふだんから人の
相談を何かしら受けている存在である。
これは、占い師でなくとも、誰もが必ず経験せざるを得ない事柄である。

私たちは、
あまりにも簡単に人の相談に受け答えしていることに気がつかされる。
人の想いというものは、言葉の量に比例するものではない。
苦汁の想いで吐き出したたったひとことの中に、
どれだけの時間と、痛みと、苦しみや悲しみが混じっていることか、
想像されたことはあるだろうか?

時には、返すひとことが人の人生を大きく左右してしまうことだってある。
言葉は、愛であり、言葉は凶器である。

いまここに、Yesのひとことを待っている者が、
目の前に一人いるとする。
映画の撮影現場で演じている、俳優さんがそれである。

監督は、あるところまできたら、必ずOKを出さなければいけない。
時には、いつまでも納得のいくものが得られずに、
takeを何度も繰り返すことがあるだろう。

納得と妥協のあいだにあるものは、いつも
ふたつのOKである。
自らの胸から沸き出づる心の声は、
私とわたしでないもののふたつの葛藤の中で揺れ動く。

わたしとは、
わたしの人生のなかで培った、
「好き」と「嫌い」とゆう、感情ゆえのOK。

わたしでないものとは、
わたし自身を封印して、
その人が何を求めているのか、ずっと考えながら、
会話のなかでヒットする、
まるで、
宝探しのようなOK。

自分でも気がつかないうちに相手に放った、
わたしの唇をつうじて、わたし以外の何者かがしゃべった
意外な言葉。

ほとんどのひとの、
さまざまなシチュエーションの中で行われてきたOKとは、
前者の「好き」と「嫌い」で行われる裁き。
それを放ったほとんどの人は、
その無責任な答えを正しいと信じていて、
それを放ったほとんどの人が、
その答えに大方の満足を覚えていて、
それに自信をもって相手に押し付けようとこころみる。。

賢人たちが、書を著すときには、
それは、
すべてをみずからの言葉で
行を埋め尽くしているわけではない。

かえって慎重に、
自問自答しながら、
かつての賢人たちの言葉を代用しながら、
少しでもクオリティの高い、
少しでも普遍性のある言葉に磨きあげた結果として、
人に意味合いを感じさせるような言霊となって、
はじめてわたしたちの心へと吸い込まれていく。

賢人であればあるほど、
ふたつのOKの隔たりは、
もうほとんど感じさせないほどに
その差をなくしていくであろうし、
愚人であればあるほど、
自分の放った言葉に対して、
何よりも自信だけが勝っていき、
言葉を失った対面の人間に対して
勝利の笑みを心の底で繰り返すだろう。

ひとがひとを裁くことは、ひととして最も罪深い行いなのかも知れない。

その人が、傷つき、
落ち込んだ場面を見てわたしたちは、
自分の放った罪を感じえるかも知れない。
その人が、喜び、
元気になったことがかえってその人を、
傲慢たらしめ、周囲に害を及ぼす人間へと
奨励してしまったのかも知れない。

二つのOKの行き着く先は、
人智を越えた未踏の境地。

聖書の上に手を重ねて、
あえて人を裁く勇気と決断を祈ることも方法のひとつ。
ほとばしる愛の想いで、
自分の痛む心にムチ打ちながら、
自己と他者、
それを同時に裁く方法も、そのひとつ。
自己の感情を抑えて、
お腹にくっと力を入れて、
観察力と想像だけが、他者を越え、
過去に読んだ書物を越え、空間を越え、時を越えていくのも
そのひとつ。



寺千代

2007.5.6記事



                                               第三のOK!
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