神は自ら助くものを助く
(救う者と救われる者)

一手、拍を成さず。
片脚(へんきゃく)歩むこと能(あた)わず。
必ず彼此(ひし)の至誠によって乃(すなわ)ち感応を致す。
しからずんば徒(いたず)らに財物を費やすも、
修法何の益かあらん。

    
                            空海
 (訳文はこちら)

悩み
とは、心が風邪をひいてる状態です。
心の病に限らず、
病気で苦しんでいる方の共通点として、
兎角、
自己中心になってしまうことです。

グチや、不満や、痛みを訴えて、
険しい、嫌な顔を家族に片っ端から向けよう試みます。

それでもたとえ、一家の主である旦那さんや、
一家の太陽である家の奥さんがそうなってしまうと、
その
の言霊(ことだま)は、すぐに家の中をとりまいて伝染をはじめます。

病の日には、誰だって少しくらい自己中心になってしまうこと。

これは仕方のない、ごく
自然な現象と言えましょう。

ふだんは、外部に放出しているエネルギーを、
内側に向けて保護していくのですから、
さほど他人のことなど考えなくても良いし、また、
そんな余裕など本人にはないはずです。
また、必要以上に罪悪感を本人が持ってしまうような関係を、
ご家族は決して作るべきではありません。
一緒になって苦しみを分け合って、思いやりの心を持ちながら、
早い
回復を祈ってあげましょう。

それでも、度が過ぎてしまっては、
先ほど申し上げたように、悪いことばかりが続き、
家庭内のもの言わぬ空気でさえ、陰険なものへと変化してまいります。


人は誰もが、ひとりで生きていきます。

生まれるのもひとり。
死んでいくのもひとりです。

現代、
「サービス」「癒し」といった言葉が、
街の中にもう嫌というほど陳列されておりますが、
サービスを受けるのも、癒しを受けるのも、
人の手を煩わすこと、
恥ずべきこと、
どうせなら
感謝すべきこと、
だということを、もっとみなさんが知るべきだと私は思うのです。

してもらうこと、楽なこと、心地よいことは、すべて、
あなたが、誰かに与えたゆえの
ご褒美、功労賞である、と私は思います。
みんなが心をなくしたまま、
何かやってもらうことばかりに慣れすぎている、と私は思います。


占いで苦しみを解いていくその手法として、
そのひとつに
因果律を説くという方法がございます。

「あなたが今、こうしてお腹をこわして苦しんでいる原因は、
2日前に冷たいものを飲み食いして、そのままお腹を出して眠っていたからです」
などという具合にです。
苦しみの大きさが大きい人ほど、その原因は
遠い過去へと遡ってまいります。

童話のモモの中に、
「仲の悪くなってしまった二人の大人が、どうしてそうなってしまったのかを、
20も30も事柄を遡って突き詰めていくうちに、
その発端が、相互の愛に溢れた勘違いだった」という一節がございますが、
悩みのほとんどが、そうやって
自分自身で作り上げてしまったものだということが出来ると、
私は確信します。

ところが、大人たちはそんなことは棚にあげ、すっかりと忘れてしまい、
都合の良い解釈を持ち出して、
声高らかに、
自分の苦しみを、みじめな毒ガスとともに、周囲に吐き出し始めるのです。

さて、まぁいい。因果は分かった。
とにかく、今だ。話は、この苦しみを取り除いてもらってから聞こうじゃあないか。

人は、困った時の神頼みを始めます。
ところが、何にも変わりません。
苦しみは、苦しみのまま。
私は、(みにくい)私のままです。

じつは神様は、
(モモのお話は「」の中だけ。もうとっくに別のお話になっていますからね。)
位の高い、力の大きな神様であればあるほど、
傍観しております。
さっと祈って、さっと助けてくれるような神様は、まだまだ現実の世界に近い神様です。
本当の神様は、その人が、もうあえいであえいで死ぬほどに苦しんでいるのを
ただそのままにじっと見ているのです。
これは、なぜでしょう?

これが、私が
【救いとは自立である】と書いたゆえんです。
獅子はわが子を千尋の谷に落として、
這いあがってきたものだけを、育てると申します。

神も仏もあるもんかって、自力で懸命になって険しい谷を登っていくと、
そこですっと
手を差し伸べてくれるんです。

人は皆、明日を生きるために、今日を必死で生きていきます。
今日、やらなければ、明日、今日の分もやらなければいけないように、
人生はすべてそうやって出来ております。

病気というものも、実はお医者が治してはくれません。
どんなに高い薬も治してはくれません。
では、本当に病気を治し、
悩みから救い出してくれる正体とは、
いったいなんでしょう?

それはね、人の持つ自然治癒能力なんです。

外側からの癒しや、サービスとは、単に自分の魂に働きかけているだけのことなんです。

さて、その際たるもの。
肝臓のはたらきって、
あまりくわしくは知られていませんよね。
代謝、排出、解毒、体液の恒常性など、
実に多くの機能が確認されている人の臓器ですが、
肝臓から出される
還元酵素というものは、
いわばあらゆる病気のための真の薬であり、その数、5000種類といわれています。

人体を生存させるために、
私たちひとりひとりがこのような
ハイクオリティな仕組みを内部に抱え持っているわけですけれども、
では逆に、エブリタイム自動制御。
ぱっと薬が出て、ぱっと病が治るかといえばそうはいきませんよね。
肝臓の助けを待って、
何にもせずに放っておいたら死んでしまう病の方だっていると思います。

医者にアドバイスをもらって、
お薬を出してもらって、なおかつ自分で努力をしますよね。
ぐっすりと寝てくださいとか、
汗をよくかいてくださいとか、
栄養素の高いものを食べてくださいとか…。


@昔、弘法大師が人の治療を行っていた頃、こんな言葉を その時残しております。
(原文、冒頭
片方の手で拍手は出来ませんよ。片方の足で歩くことも出来ませんよ。
 祈願を依頼した側と、祈願をする人の両方の誠の心がぴったり合ってはじめて、
 仏様が応えてくれるのです。
 もし、そうでなければ、どれほど依頼者がお金を積んでも、
 修法にちっとも効験は現れないものですよ。

A落雷が起きる時、天から地に落ちると同時に、
 地から沸き立つ放電現象が重なって稲妻となります。

B鳥の卵が孵る頃、雛は内より殻をくちばしでつつき、
 親鳥は、外から殻をつつきます。
 たまごの殻は、割れやすく、薄く変化していきます。



奇跡(悩みが晴れる、希望が叶う)を起こす(神鳴り)の出現は、
相互より起こる、
と感動の波動により実在のものとなる。
感謝をもって、御国は近づき、
愚痴によりて、御国は遠のく。
麗しきものは守られ、
卑屈なるものは、暗雲たち込めて救いの光は届かず。


                                                                         開運法

寺千代
2007/3/9

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