お釈迦さまは、悩んでおりました。
人は、なぜ死ななければならないのだろう。
死んだらどうなるのだろう。
死んだらいったいどうなってしまうのだろう。
来る日も来る日も、
そのことが頭について
決して離れようとはしません。
死を考えるということは、
生を考えることです。
お釈迦さまは、人が死ななくても済む方法を考え出した方です。
え?お釈迦さまだって、亡くなったじゃないか、ですって?
もちろん、肉体は有限ですから、
時が経てば滅びます。
では、逆に質問しますよ?いいですか?
あなたは、いま、生きていますか?
どうか怒らないで聞いてくださいね。
生きるとは、夢中になって生きていますかということです。
みなさん、悩みのひとつやふたつありますよね?
ご飯を食べていても、ただおなかに詰め込んでいる、
そんな時だってあるんじゃないでしょうか?
お釈迦さまはね、死の近くなった時、
こうおっしゃっているんです。
[
「私は、悟ってからいままで常に目覚め続けてきた。
ゆえに私は仏陀(目覚めた人)である」。
生を100%生きているとあなたは言えますか?
生も死も超えた世界のことを、
仏教では「涅槃」と言います。
この世界に到る方法を、
お釈迦さまは説いているのです。
さて、その方法ですが・・・。
人が生きていてもなお、
苦しみの中(娑婆)でもがいているのは、
それは悩みがあるからなのだと。
その悩みは、他からやってくるのではなく、
自分自身の心の持ち方に原因があるのだと。
見栄や欲や無知や愚かさがそれであると。
それを知って、それをなくす様にしなければならないと。
なくし続けなければならないと。
これが、四諦。
苦集滅道。
そして、実際に何をすれば良いか?
それが、八正道です。
人として正しいことをしなさい。
お釈迦さまは、そう言っておられます。
しかし、愚かな私たちは、
そのひとつでさえも、
なかなか守ることは出来ません。
また、たとえ、
そうですね、
この中の正語、正念にしても、
果たして自分のやっていることが、
本当に神や仏の意に叶った
正しいものなのかどうか?
自己満足で、実際は、
無意識に人を傷つけていたということは、
よくあることです。
悪いことが起きる原因は、
その人の積んだ悪い行い。
人を傷つけたり、苦しめたり。
それが、業(カルマ)です。
徳がある人間ほど、
幸せになります。
今まで悪い行いを重ねたことで、
悩みを抱えている方は、
人にとって益する行い、
徳を積むと良いのです。
それが、巷の宗教団体などで行われている、
@体施(身体を使った奉仕)
A物施(金品を使った奉仕)
B法施(正しい教えを説く)です。
@とBは、通常の生活のなかではなかなか出来ません。
給料をいただく職業の中の労働では、
奉仕ではなくなってしまうためです。
そこで、おすすめなのが、
Aの物施です。
恵まれない子のためなどに、
進んで寄付を行ったりすると、
自分の犯した罪が、
違う形の功となって消えます。
長くなりましたが、
神社のお賽銭には、
そのような意味があります。
私たちは、お参りに行って、お賽銭箱の前にいくと
(じゃあ5円だけあげとこうかな)
などと、
「神社に寄付してあげてる」
気になっていますが、
それは違います。
神社とは、本来、
その土地を守る神様に、
御発動いただくために鎮座いただいている聖域であり、
お賽銭をあげるとは、
私たちが、知らず知らずのうちに犯してしまった罪を、
その浄財にて消していただくことです。
神社のお賽銭は、地域の人々の悩みや苦しみを、
神様が救ってくださるために使うものですから、
(実際には神主さんが使うのですが、
神主さんがいるからこそ、
神社が清く、神様のおられる聖域に守られるのです)
間接的にですが、
神様や多くの救われない人たちの役にたったという
功績が残るのです。
お参りさせていただくのです。
これを知ったら、
(ま、5円でいいか)
という発想は出てきませんね。
寡黙にそっと、
街に寄り添って息づいている神社とは、
直接的、間接的にいつでも、
人々の幸せだけを願っている神様がいらっしゃるのです。