成 龍(せいりゅう)

〜 蒔かぬ種は生えぬ 〜





嵐が去って、今日は稀に見る秋晴れの日だった。

建物の白に映える日の光は、明るくまぶしい。
人の発する声は、乾いて高く、地に落ちることなく、揚々と舞い上がり昇って来る。

今朝、
鑑定ルームのベランダに出た。
ゆうべの激しい、雨と風に打たれて、折れて、飛んでしまった草花も、確かにあった。
それでも、今日この日、
小菊の花は、僕の前にはじめて姿を現してくれた。
(あれから7ヶ月経った。。)

「お帰り」

そんな言葉がこの心情に似合うのは、
長い間、菊のことを見守り続けていたせいなのだろう。


鑑定ルームをOPEN(2006.8)してから、様々な方にお花植物をいただいた。
しかし、なぜかその植物たちはとても短命で、
気をかけ、水をそそぎ、愛情を掛けてきたにも関わらず、
僕の目の前で皆しおれていってしまった。

あの頃、本当にお金がなかった。

それでも、何を差しのいても、僕は
植物を買っていた。
人というものに、とても疲れていたときだった。
植物は、ただただ、僕に力を与え、慰め、喜ばせ、
最後まで、その身を湛えながら、健気に枯れていった。

僕は、お客様にいただいたモノも、
自分で買い求めたモノも、
出来る限りの愛情を注いだつもりだったのだけれど、
後に残ったものは、
大中小見事に連ねた植木鉢だけだった。
それは、何重にも重ねられて、僕の後悔と一緒になって、
ベランダにある、雨のあたらない隅っこのほうに、溜めて置かれた。

何ひとつ、
夢を育てあげることの出来ないジレンマに囚われていた。

人はいつも、僕に笑顔だけを残して、
みんな遠くへ行ってしまうようにおもえてしまう。
そんなつらい日々が続いていった。
(こんなに愛しているのに。。)

春は、もうそこまで来ようとしていた。

ビル風の吹きすさぶなか、僕はひたすら
春の景色だけを想っていた。
ホームセンターの、種のコーナーで、いくつかの
を買った。
種は、人で言えば
「夢」である。
未来を想う、
「子供」である。
「命の卵」である。


3月21日。春分。一粒万倍日。



【4×5のセルトレイを4つならべて、
圧縮パームピートを水で戻したものを詰めていき、
それぞれ、4種類の種を蒔いていきました。】
この土は、やわらかく、
発芽に適するとてもよい土ですが、
乾きやすく、出来るだけ朝いちばんに水をやらなければ、
すぐに乾いてしまいます。

2週間後。
【すべてのセルトレイからは、
ただのひとつも発芽することはありませんでした。】
やはり、水をやる時間が遅かったからだと、僕は想います。
とても良い時期でした。
ちょうどこの頃から、あらためて
をしっかり見るようになりました。

【再度、すべてのトレイに種を蒔きました。】

占いをやっていると、どうしても夜は遅く、
朝も遅くなってしまうものです。
でも僕は、この種をしっかりと育てるためだけ、に、
朝、出来るだけ早く、鑑定ルームに来るように心がけました。

そんな甲斐もあって、
10日目に発芽しました。

菊の種は、とても小さく、まさに芥子粒大であって、
その芥子粒から出てきた緑の芽も、
ちょっとみると、ただの糸くずのように見えて参ります。

今度は慎重に、慎重に、
水を与えていきました。
雨が多いときは、出来るだけ内に入れるようにしました。
水が乾けば、足すようにしました。

芽が、双葉となり、本葉が出てきた頃、
ある日
すべてがダメになりました。
たった、一日
寝坊してしまったのがきっかけでした。

一からやろうと決めてから、
祖父母が手付かずになっていた植木も、
全部整理した後でした。
植物は、何にもありませんでした。

道端の草は、何もせずともこんなに元気なのに、
どうして自分が水をやると、こんなに
枯れてしまうのだろう。。

がらんとしたベランダには、
うすら寂しい心が残りました。

【僕は、もう一度、種を蒔きました。】
発芽しなかった種は、もう蒔くのをあきらめて、
一度、芽を出した、
小菊を中心に種を蒔きました。
家から持ってきた、
昼顔科の植物の種も蒔きました。



季節は、すっかり春でした。
もうすぐ4月20日の頃でした。
二十四節気において、この頃を
「穀雨」と申します。
穀雨とは、穀物の成長を助ける雨が降ると、暦に記されています。

果たして、4月20日になりました。
この日、本当に雨が降りました。
柔らかい、春の雨が、何日も断続的に降りました。

ここで僕は、あらためて自然の偉大さに
感動を覚えました。

僕が毎日、愛と想いと水を与え続けても枯れてしまった植物は、
いったい、雨が何日降り続けようと、
ちょうど
良い加減の水分が補給され、
再び発芽した種は、みるみるうちにたくましい苗となっていったのです。
僕がいちばん恐れていたことは、
根腐れでしたが、
雨がどんなに水を注いでも、
植物はますます生き生きと成長していきました。


あたたかくなるにつれて、植物は大きくなっていきました。
セルトレイから、ポリポットへ。
ポリポットから、
コンテナへと移し変えていく作業は、
間違いなく、植物とともに僕自身を成長させていきました。



やがて、
がやってきました。
ある程度の大きさになると、発芽の時ほどに、
水やりに気を配る必要はなくなりましたが、
今年の猛暑は植物を直撃し、
土が乾くとすぐに
しなだれていきました。
また、一からやり直しかと思いました。

それでも植物は、水さえしっかり与えてあげたならば、
すぐにその
元気さを取り戻しました。
何度も確認しましたが、
その度にその驚異的な生命力を、
僕に教えてくれました。


家から持ってきた植物は、
盛夏になると、ツルがどんどん伸びてしまい、
しまいには、棒を立てるだけでは追いつかなくなってしまいましたが、

夏の終わりとともに、ツルが枯れ、花も種を残して咲かなくなりました。
僕は、そのツルを取っ払い、
種を収穫しようと思いましたが、
すでに種は、どこかへ飛んでいってしまったようでした。
しかし、それらのほとんどは、自身のコンテナ土に落ち、
あの夏の盛りほどではありませんが、
ふたたび芽を出し、葉を出し、
最近、花が咲き始めました。
so-raに向かっての成長は、遠慮しつつあるものを、
土には、たくさんの芽が葉となり、
わさわさとたくさんの緑で覆いつくして、
僕にたくさんのたくさんの勇気を与えてくれます。


祖父母の植物は、名前が分かりませんが小さなアロエのようなもので、
あの頃、赤く枯れていたので、
元気な部分だけを切り取って、横に這わせて土に埋めておきました。
それが現在は、以前と同じくらいの量になって、
元気で、最近たまに花が咲いていることがあります。


そして、今日、
ずっと咲く時期を待っていたこの秋、この日になって、
小菊は僕に、ようやくその姿を見せてくれました。
この日を迎えるためだけに、水をやり続けていたと思うと、
僕にもひとつの自信が湧いて来ました。



蒔かぬ種は生えぬ。


これは、僕の先生が、何度も僕に語ってくれた言葉です。
「君に足りないものはね、夢を始めないことなんだよ」
ふと思って、
「そういえば先生。神社でおみくじを引きました。
これは、とても僕に意味がある言葉なんじゃないかって、
先生に見せようと思って持ってきました」
「ほう、どれどれ・・・。なんだ!!“蒔かぬ種は生えぬ”って書いてあるじゃないか?」
「え?嘘?」
「本当だよ、ほら、これ見てごらん」
「本当だ」

あれから、10年。

僕は種を蒔いたのだろうか?
是。確かに、
色々な種を蒔いてきたと思う。

では、今までの心の寂しさはいったいなんだったのだろう?
是。それは、諦めずに繰り返していたか?
また、水を与えていたか?与えすぎてはいなかったか?

蒔かぬ種は生えぬ。
桃栗三年。柿八年。

潜龍たる人の魂が、天をかけて始めて成龍になるまでに、
いったいどれだけの時間が掛かるのだろうか?

は、土に蒔き、日と水と空気があれば、
それはやがて、時が来て美しい花を咲かす。

人もまた、環境と、志と学問と良き友があれば、
やがて花が咲き、実を結ぶ。

時は過ぎ去るものならず。
時は、必ずやってくるものである。



寺千代


                                                          自信が持てない時
寺千代
2007/10/28


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