神道
〜大いなる和の国の物語〜



数ある宗教の中でも、神道という宗教は、
ちょっと普通じゃあないと思う。

宗教と言う言葉は、宗家の「」と「え」という字が
組み合わさって出来たものだ。
つまり、人間が人間たるために、最低限必要なこと
(例:モーゼの十戒など→盗むな・殺すな・犯すな…)を
神の名を持って聖人が説いたものである。

どんな宗教でも、神が直接、
万人に説いた教えというものを、
私は聞いたことがない。
どんな偉大な宗教でも、
たった一人の人間から生み出されていくものなのである。

それを、教祖。または開祖と呼んでいる。

しかし、神道に教祖はいない。
そして、聖典も存在しない。

古事記や日本書紀は、
神道の崇拝対象とされている神々たちの名が出てくるが、
これは厳密に言えば、聖典とは呼べない。
その中には、ものがたりがあるだけで、教えなどどこにも書かれていないからだ。

だから、確固たる教えも存在しない。
ただただ、神社の作法や形式が
2000年前となんら変わらないことだけである。


では、神道とはなにかといえば、
日本の国で行われてきた、
礼節および儀礼および風習がその正体のすべてである。

箸の上げ下ろし。
はみがき。
風呂。
食うもの、
着るもの、
住むところ。

すべてが神道である。

以前、神道国際学会に参加した時に、
中国の道教について、
各界の先生方が講義をしてくださったが、
つまるところ、道教という教えもやはりなくって、
中国に根付いた生活の中の儀礼であると結論づけたところで、
終わったように私は感じた。

世にまじないは、星の数ほどあれども、
日本の風習や生活をきっちり行ってみれば、
そのすべてが強力な呪術(開運秘法)となっていることを、
ほとんどの人が知らない。
実にもったいないことだ。

神道は、八百万の神を拝むというのが、一般的に良く知られていると思う。

神道が起こるに至ったその背景には、この国の国家としての誕生の歴史に深く関係している。


人々は、それまで、誰に教わることもなく、それぞれが神を拝んでいた。
いまのように、
良いことがあるためにとか、悪いことが起きないようにとかではなくって、
もう拝み祀ることが、
日常の生活の中の一部であった。

これは、世界を広く見渡してみるとよくお分かりかと思う。

たぶん、神のないところはない。

それぞれの民族には、それぞれ特有の神があり、
それは綿々と現代にまで受け継がれているのだ。

日本の祖先たちの崇拝対象となったのは、やはり祖霊たちである。

また、インディオたちのように、
自然の中に神を見出すというアニミズムの感性も
祖先たちは持ちえていた。
アニミズムとは、
拝むから、あるのではなく、あるから拝むのである。


各家庭がそれらの信仰を持っていた。
やがて、部族の中に、長が出来、
また、長の中に、中央集権国家が誕生しようとする時、
長たちは、家庭の神をそれぞれ認め、
それぞれを崇め奉り、
村の中において合祀するという智恵を持って、
国を統一していったのである。

共栄共存


やがて、
神道の思想は、武士道に引き継がれ、
親を敬い、目上を尊ぶという縦社会の完全な系列が出来上がっていった。

また、
それ以降に海外より入ってきた新しい教え
(仏教・儒教・キリスト教)とも融合し、
またそれさえも独特な日本文化の一環となって、
すべてが開花していくのである。

これが日本の、日本たる種族の主たる特徴である。
否定して、滅ぼすでなく、
認めて、つながって、家族となるのである。


天皇とは、
もともと占いの言葉で、北極星を擬人化して指した言葉、
天皇大帝」より発する。
天皇は、シャーマンであり、
神の代わりに、
神の願いの通りに
国を治めることが、求められた。

シャーマンとは、
今でいう超能力者。

占いを行うのも、
もとは国をおさめるためのものであり、
現在のように個人の一生を占うものではなかった。

近代に入ってから、
国家神道なるものが顕現し、
神道の歴史そのものが
軍国主義の道具として使われるという、
実に悲愴な立場に立たされるが、
以上記したように神道とは、
報復をよしとしない甘受の土台を持つ
大和(やまと)の歴史そのものなのである。

これからは、日本の時代が来ると思う。

50億の人の想いを、
信仰を、
すべて包括できる宗教など、他に類を見ない。

太陽の下では、すべての人類が家族である。




寺千代

2007.1.11記事



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